語り手すら信頼できない?〜『ヘイトフル・エイト』(ネタバレあり)

 クエンティン・タランティーノの新作『ヘイトフル・エイト』を見てきた。

 舞台は南北戦争後のアメリカ。賞金稼ぎやら逮捕された犯罪者やら、ひとくせもふたくせもある連中が駅馬車に乗り合わせ、ワイオミングの冬の暴風雪を避けて、駅馬車の駅でもあるミニーの紳士服飾店に避難してくる。ところがミニーと連れ合いのスウィート・デイヴは留守で、店には数名先客がおり、メキシコ人のボブが店を一時的に預かっているという。元北軍少佐のアフリカ系賞金稼ぎマーカス、賞金稼ぎのジョン・ルース、ルースにつかまった犯罪者デイジー、知覚の街レッドロックの新しい保安官だと名乗る、昔南軍の暗殺部隊に所属していた軍人クリス、店を預かっているらしいメキシコ系のボブ、レッドロックの死刑執行人でイギリス生まれらしいオズワルド・モブレー(ティム・ロスが演じているが、名前の元ネタはイギリスのファシストオズワルド・モズレーか?)、ママに会いにきたらしいジョー・ゲージ、元南軍将校のスミザーズ将軍がタイトルにある「ヘイトフル・エイト」、つまり憎み合っている8人なのだが、この他に御者のO.B.もいる。元北軍か南軍かでモメたりしているうちに殺人が複数発生し、犯人探しがはじまる。後半はタランティーノお得意の時系列操作がある。

 見た感じはアガサ・クリスティのクローズド・サークルミステリみたいな感じで、クリスティの影響もずいぶん指摘されている。密室で展開するので、かなり舞台劇的でもある。さらにジョン・ウェインの『駅馬車』にも似ているのだが、『駅馬車』で描かれているような人間の美徳は一切登場しない。

 作中で「この部屋をアメリカに見立てて地域分けしよう」みたいな話が出てくるところがあるのだが、おそらくこの雪に覆われた密室は象徴的なアメリカの縮図である。そしてこの象徴的というよりはむしろ矮小化されたと言っていいようなアメリカには、とにかく信頼も理性も一切存在しない。ひたすら憎み合い、ウソをつきあい、何も悪いことはしていない人たちを巻き込んで殺し合うだけである。

 現代アメリカを描くためには人種やジェンダーについての問題が外せないので、この映画はそのあたりをかなり「人の嫌がることをすすんでやる」ようなイヤーな感じで凝縮させて描いている。描写じたいは大変意欲的だと思うのだが(なお、ベクデル・テストはミニーとジュディのコーヒーについての会話でパスする)、ちょっと作劇上どうかなーと思うところもあった。

 まず、「ヘイトフル・エイト」の中で唯一、女性なのがジェニファー・ジェイソン・リー演じるデイジー・ドメルグ(Daisy Domergue)である(この苗字、「ドメルグ」よりは「ダマグ」みたいな感じで発音してたが、たぶんB級映画のスター、フェイス・ダミューア(Faith Domergue)からとってるのでは?)。デイジーは一万ドルの賞金がかかっている犯罪者で、賞金稼ぎジョン・ルース(カート・ラッセル)に手錠をかけられレッドロックまで輸送される途中だ。デイジーは女性なのだが、女性というだけで性的に描かれるようなことはほとんど無い。これだけ暴力的に人が殺し合う映画でデイジーは性暴力の対象にも一切ならず、他の連中と完全に対等なこずるい悪党、人種差別的でいけすかねえ犯罪者として描かれている。悪党のキャラクターとしては非常に掘り下げられた面白い人物で、とくにサミュエル・L・ジャクソン演じるマーキスがリンカーンからもらったという手紙に関するやりとりの場面などでは男どもの足の引っ張り合いをちょっと引いて見て笑い飛ばすようなところがあり、男社会アメリカに同化せず自分の足で立って生きているワルである。ギターを弾きながら「ボタニー・ベイのジム・ジョーンズ」を歌うあたり、気の利いたところもあり、ここはちょっとブレヒトの『三文オペラ』に出てくる「海賊ジェニーの歌」に似ているように思った(もともと『三文オペラ』の「海賊ジェニーの歌」は最初のほうで悪党メッキーの花嫁ポリーが歌うのだが、メッキーの元愛人で、メッキーが絞首刑になるよう密告したジェニーの歌として演出されることが多い)。
 ところが最後にデイジーが死ぬところはちょっとオチとして強引すぎるのではと思った(ネタバレ注意)。瀕死のマーキスとクリス(ウォルトン・ゴギンズ)がデイジーは悪党だからということで銃殺せず、残った力を振り絞ってデイジーを絞首刑にすることにする。銃殺が貫通による処刑で性暴力と視覚的に結びつけやすいことを考えると、性暴力的イメージを避けるというコンセプトはここまで一貫している。ところが、ここまでのところでデイジーが犯した罪が一切、明かされていないのである。これは含みを持たせたかったのだろうが、カッコいいことしようとしているようだが実は作劇としてあまりうまくいってないと私は思った。ここでデイジーの罪が明かされないと、なんでデイジーがものすごく残虐な方法で処刑されるのかわからないし、今まで強烈で面白い悪党だった女性が突然「アメリカ社会の性差別のかわいそうな犠牲者」みたいに見えかねないと思うのである。とくに最後、デイジーが天井から釣られる場面で、デイジーの背後にあるスノーシューみたいなものが映り、デイジーの死体がまるで翼のはえた天使みたいに提示されるので、余計そういう「かわいそうな人」という印象が強まってしまう。ここの象徴の使い方や落とし方はどうもうまくいっているように思えなかった。

 もうひとつポイントになるのは、元北軍の軍人だったマーキスが、元南軍の将軍で多数のアフリカ系を虐殺した過去があるスミザーズ(ブルース・ダーン)に話をするところである。マーキスによると、彼はスミザーズの息子チェスターに命を狙われ、返り討ちにして強姦したあとに殺害した。この話をきいたスミザーズはマーキスに銃を向け、マーキスに返り討ちにされる。ここは大変ショッキングで残虐でびっくりするようなヴィヴィッドなシークエンスなのだが、一番問題なのはこのマーキスの極悪非道な話が本当かわからないということである。たしかにフラッシュバックを用いて克明にチェスター殺害が映像で説明されているのだが、その前にマーキスが持っていたという「リンカーンの手紙」が、マーキスが白人の歓心を買うために使っていたウソだとわかるところがある。ここでこのチェスター殺しの話が手紙同様、権力を持った白人の心を操作するために用いられているところを考えると、この話は手紙と対になっていてウソなんじゃないかと思えてくる。手紙の話の時も、このマーキスのチェスター殺しの話の時も、デイジーだけちょっと違う反応をしており、デイジーが男性の見栄やウソに敏感なことを考えるとこれもマーキスの話の怪しさを倍増させる効果がある。さらにこの話の前にO.B.(ジェームズ・パークス)がいったん外に出てあまりの寒さに震えながら部屋に飛び込んでくる場面があるので、これを見てマーキスが寒さに脅えるチェスター強姦にまつわる残虐な話をでっちあげたのではという疑いを持ってしまう。またまたこのスミザーズ殺害の後に入る全知の語り手(タランティーノ)のナレーションが、「ウォレン少佐がお話で聴衆を夢中にさせている間」"Major Warren was captivating the crowd with tales"とか言っており、このマーキスを舞台役者にでもたとえるような言い方もなんだかうさんくさい。このあたり、見ていてもう全く誰も信用できない、ひょっとすると全知の語り手もウソついてるかも、とか思えてくるのだが、このあたりは前述したデイジーの罪状と同様ぼかした表現を使ってはいるが、それと比べてはるかに上手いと思った。アフリカ系住民の白人住民に対する性暴力というのはアメリカ合衆国において歴史的にものすごく恐怖をかきたててきた題材で、実際に起こらなくても噂だけでアフリカ系の住民のリンチや殺害が起こっていた。こういう歴史的な背景をふまえてアメリカ社会を描こうとしているのだろうと思われる。ここはもうちょっと考えたい。

 全体的には、とにかく掘り下げるほどいろいろなものが出てくる映画で面白いと思うのだが、ただ作品として『イングロリアス・バスターズ』や『ジャンゴ』と比べるとちょっといろいろひねりすぎているし、暗くて見るのが大変だという気はする。