声をあげることの重要性〜『ラビング 愛という名前のふたり』

 ジェフ・ニコルズ監督『ラビング 愛という名前のふたり』を見てきた。事前にこの映画の公開と国際女性デーを記念してウィキペディアに[[ラヴィング対ヴァージニア州裁判]]を翻訳しており、一応簡単に歴史的背景を確認してから見に行った。

 お話は1950年代末のヴァージニア州、白人のリチャード・ラビング(ジョエル・エジャトン)に、恋人であるアフリカ系のミルドレッド(ルース・ネッガ)が妊娠を告げるところから始まる。子どもが生まれるのをきっかけに、2人はワシントンD.C.で正式に結婚してラビング夫妻となるが、住んでいるヴァージニア州では異人種間結婚は違法であった。2人は逮捕されてヴァージニア州から追放処分となり、ワシントンD.C.に住むことになるが、慣れない大都市でとても苦労することになる。これに疲れたミルドレッドはロバート・ケネディ司法長官に嘆願の手紙を送るが、ここから事態が急変する。アメリカ自由人権協会の弁護士たちが無料で協力を申し出、何年もかけて憲法訴訟を行った結果、やっと異人種間結婚の禁止が憲法違反であることが認められ、2人はヴァージニア州で正式な夫婦として平和に暮らせるようになる。

 全体的に淡々とした描写を丁寧に積み重ねることでラビング夫妻の静かだが強い愛を浮かび上がらせていく作品になっている。ラビング夫妻をエジャトンとネッガがぴったりの息で演じており、演技はとても見応えがある(実はルース・ネッガはロンドンで『西の国のプレイボーイ』のペギーンを演じた時に生で芝居を見ており、その時から上手な女優だと思っていた)。裁判の映画なのだが基本的にラビング夫妻は最高裁に出廷せず、法廷ものという感じもあまりしない。夫のリチャードはレンガ作りや車の整備を黙々と行う朴訥な性格の男性なのだが、心からミルドレッドを愛しており、たまにミルドレッドの行動力にびっくりすることもあるが基本的に妻の考え方を尊重している。白人だから、男だからといってあまり周りの人間に対して偉そうに振る舞ったりもしない。無骨そうだが穏やかで優しい性格のリチャードに比べると、妻のミルドレッドは物静かで大人しい女性だが差別に抵抗する強い意志を持っており、ケネディ司法長官に嘆願したり、裁判に積極的だったりするのもミルドレッドのほうだ。ミルドレッドが公民権運動の報道をテレビで見て、親戚のローラに提案されてケネディ司法長官への手紙を書こうとするところは、誰かが声をあげることで他の人が勇気づけられ、声をあげることができるというつながりを感じさせるものがあった。ちょっとした思いつきでも声をあげることが大事なのだ。

 あまり扇情的にならない描写の積み重ねでゾッとするような人種差別の怖さを見せる演出もいいのだが、さらに面白いと思ったのは、ミルドレッドがワシントンD.C.で味わう疎外感を上手に描いていたところである。田舎のほうが都会よりも不自由で保守的だという考えはよく見かけるし、この映画における人種差別法なんかにはまさにそういうところがあるのだが、一方で田舎には都会にないコミュニティの支援を受けられるという利点もある。ミルドレッドはヴァージニアの田舎の大家族で育ち、親族や友人の女たちで助け合って仕事や子育て、家事をしてきたのだが、ワシントンD.C.に行くとそうしたコミュニティの力、あるいは「女縁」とでも言うべきものがほとんど利用できなくなってしまうので(助けてくれるのは家主で親戚のローラだけだ)、子育てでどんどん孤立してしまう。このあたりをさらっと描いていてうまいなと思った。全体的に女性の描き方はわりと上手で、ミルドレッドとリチャードの母がパンのレシピについて話すところでベクデル・テストもパスする。

 ちなみにこの映画にはマイケル・シャノンが写真家の役でちょっとだけ出てるのだが、シャノンは同性カップル年金問題を扱った『ハンズ・オブ・ラブ』にも出ており、結婚の平等とか公正に興味があるのだろうかと思った。ちなみに『ハンズ・オブ・ラブ』でも『ラビング』でも支援者がユダヤ系の男性で、このあたりは全部史実なのだがアメリカ社会の傾向としてちょっと面白いと思った。