死ぬまでの間延びした時間~世田谷パブリックシアター『The Silver Tassie 銀杯』

 世田谷パブリックシアターで森新太郎演出『The Silver Tassie 銀杯』を見てきた。ショーン・オケイシーの有名作だが日本初演らしい。私もナショナル・シアターの公演をアーカイヴで見たことあるだけで、生で見るのはこれが初めてである。

 

 これは第一次世界大戦を主題とする反戦劇である。主人公のハリー(中山優馬)はアイルランドフットボール選手で(このフットボールが何を指すのか私はよくわからない…というか、おそらくGAAの選手で出征して亡くなった人がかなりいるので時代背景からしゲーリックフットボールかもと思うのだが、サッカーの可能性もある)、勝利の銀杯を持ち帰り、恋人ジェシーと愛を誓って颯爽と出征する。ところがハリーは戦傷で下半身が麻痺し、ひどいPTSDに苦しむ状態で帰ってきて、ジェシーにも捨てられる。

 

 救いのないつらい話だが、歌もダンスも笑いもあり、また戦場を描いた第2幕は非常に実験的な表現主義的手法で書かれている。このプロダクションの美術プランは、ステージ上に左下から右上に傾斜のついた箱型のステージが設置され、そこでアクションが展開するというものなのだが、第2幕はこの斜めの箱とその下の平らな台の両方を使い、役者が操作する人形が戦場を表現する。第2幕は戦争の苦痛と恐怖をリアリズムではなく、幻想と狂気をそのまま表出するような形で表現しなければならないので大変難しい場面だと思うのだが、この人形を使うという手法は、人がモノになってしまう戦争を表現するのにとても適していると思った。

 

 全体的にはとてもよくできたプロダクションで、非常に素晴らしいと思った。ハリーの同郷人で、出征して目が見えなくなり、やはりPTSDに苦しんでいるテディ(横田栄司)が最後、車椅子のハリーとともに、双方補い合っていこうとするところは、単なるお涙頂戴とか感動ではなく、物凄く深い絶望感をたたえていて、静かな場面なのに衝撃を感じた。

 

 押さえておかなければならないのは、これは第一次世界大戦の話で、今まで亡くなっていたような戦傷者がなんとか助かるようになったものの、こうした人々の生活のケアをする技術はまだあまり発展していなかった時代の物語だということだ。今ならPTSDのケアも義足も発達しているので、ハリーはカウンセリングを受けて心を癒やし、義足をつけてパラリンピックに出ることだってできたかもしれない(イギリスのパラリンピックチームには負傷兵だった選手がいる)。この時代にはまだそうしたケアがなく、ハリーもテディもおそらく体の痛みだけではなく戦争で受けたショックで心がボロボロに傷ついていて、それを癒やす手立てが全く見つかっていない。

 

 『銀杯』はイェイツに拒否されたとかいういわくつきの話で、間延びしているとか難解だとか思う人もいると思うが、私はこの芝居には最後の間延びが絶対的に必要なんだと思う。それは、この作品が死ぬまでのつらく苦しい間延びした時間についての芝居だからだ。盲目のテディと心がボロボロになったハリーは、『リア王』のグロスターとリア王を思わせるところがある。『リア王』も死ぬまでの苦しい時間についての物語だ。ハリーとテディのこれからの人生は、死で解放されるまで始終襲ってくる不安と苦痛に耐え続けるという地獄のようなものだ。死ぬまでの長く苦しい時間をつぶす不条理な生を生きるほかない。最後にハリーとテディは別の世界にいるんだという台詞があるが、それはこの2人が死ぬまでの苦しい時間つぶしをするだけの世界にいるからだ。