父親の無理解~『正欲』(試写)

 『正欲』を試写で見てきた。朝井リョウ同名小説の映画化である。

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 数人の視点人物がおり、その視点が何度か入れ替わりながら物語が進むので、あまり直線的な話ではない。基本的には桐生夏月(新垣結衣)、佐々木佳道(磯村勇斗)、諸橋大也(佐藤寛太)という3名の水に性的興奮を感じる登場人物がおり、その3人の人生が交錯して良い方向に向かうかと思ったところが逆転が…という内容である。これに不登校の息子を抱えた父親である検事の寺井啓喜(稲垣吾郎)の話が絡んでくる。

 全体的には、多様性というものが見かけほど多様ではなく、社会的に厳しい線引きが存在していてそれが恣意的だということについての話である。この映画では、LGBTQ+などは近年「多様性」の名のもとに社会への包含が目指されるようになっているが、それ以外のさまざまな性的行動については社会は冷たい。そこで出てきているのが水へのフェティシズムという無害な性的欲求で、これが無害ではない小児性愛と対立させられるような構造になっている。

 原作に比べると、本作では小児性愛の描き方がけっこうえぐい…というか、直接的に子どもへの暴力を示唆する映像表現がある。それに比べると、水をばしゃばしゃやっているだけの桐生、佐々木、諸橋は全く無害に見えるし、また水がけっこう美しく撮られているので、見ている人も「性的欲求はともかくキレイなのはキレイだし」と納得しやすい見せ方になっている。しかしながら現在のような社会では水へのフェティシズムというような性的欲求は存在すら認識されていないので、性暴力とごっちゃにされてしまうことがあり得るという描き方になっている。

 そこで水フェティシズムに対して鉄槌を下すのが稲垣吾郎演じる啓喜である。啓喜は極めて社会的に硬直した考え方を持っており、息子が不登校であることを恥じているようだし、息子が配信をすることにも理解が無い。私は不登校経験者なのだが、啓喜は不登校の子に対して示してはいけないような反応をたくさん示しているし、子どもが当事者となった不登校について学ぼうというような気も全くないらしい。言ってみれば自分が何かの当事者だというような気が全くない男であり、一方で権力を持っているのでそのぶん危険だ。この不登校に対する無理解が水フェティシズムに対する無理解ともつながっており、啓喜は水に性的欲求を喚起されるというようなことがあるのをあまり具体的に想像できないし、またもしそういうことがあるとしても別に暴力がかかわっていないので無害だからほっとこうというような考え方もあまり無い。おそらくこの啓喜は日本社会を象徴するようなキャラクターであり、硬直した父権的権力そのものを体現するような人物でもある。そのわりにこの啓喜の肉付けがちゃんとしていて、薄っぺらい象徴でないのは良いと思った。

 ただ、いくつか疑問点もある。まず、同性婚どころか別姓婚すら合法化されていない日本はほぼ多様性に理解が無いと思うので、そのへんのツッコミなしで進むのは不足だなという気はしたのだが、まあこれはそういうところに関心がある話ではないので描くことができなかったのだろう。もうひとつ気になったのは、佐々木や諸橋を児童ポルノに関する法律で検挙するのは相当に困難ではないかということである(この2人は水をばしゃばしゃやっているところを撮っただけで子どもに性的な姿勢をとらせたとかいうことをしていない)。まあこのへんはテーマ上、多少強引な展開でも仕方ないのかもしれない。あと、子どもを対象としないフェティシズムについて、そのフェティシズムを満たすのに子どもを使っていいのか…というのもあり、終盤の水フェチ写真を撮るところは小児性愛ではなくてもそこは問題だと思う。さらに濡れた衣服に対するフェティッシュは人体に対するフェティッシュだと思うので、最後にそういう人が出てきた時に「こいつは違うのでは」と警戒しないのもなんとなく不自然だとは思う。

 あと、テーマから言うとこの作品は、対人間の性愛でない形の性愛を描いているという点で『こいびとのみつけかた』とか『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』とけっこう似ていると思う。ただしこれは相当方向性がダークである。タイトルが言葉遊びになっていてしかもちょっといかついのが、ひらがな中心でやさしいタイトルの他2作とこの作品の違いを象徴しているような感じだ。