独身者の機械、クィアな死体?〜『スイス・アーミー・マン』(ネタバレあり)

 『スイス・アーミー・マン』を見てきた。

 無人島に漂着し、自殺しようとしている男ハンク(ポール・ダノ)のところに不思議な死体メニー(ダニエル・ラドクリフ)が流れ着くが、この死体はスイス・アーミー・ナイフのようにいろいろなことができて、ハンクが故郷に帰るのを助けてくれる…という話である。この「いろいろなこと」というのが変なことばっかりで、おなら(腐敗ガス)で水に浮いてジェットスキーみたいに移動するとか、口にものを詰め込んで飛び道具みたいに発射するとか、元気になるとペニスが故郷の方向を指し示すとか、そんなんだ。ということで、全体的にかなり笑える作品になっている。

 死体であるメニーは基本的にハンクの意識に連動して動いているのだが、メニーの身体の「使える」箇所というのは大部分がセクシュアリティに関するところで、たぶんハンクの性的な自意識を示している。ハンクは漂流以前はバスで見かけた人妻サラ(メアリ・エリザベス・ウィンステッド)にひそかに恋して写真を撮って携帯の待ち受け画面にしているとかいう気持ち悪い孤独な男だったのだが、漂流してひとりになることで自分と自分のセクシュアリティに向き合うようになる。ハンクが女装してメニーと恋人ごっこをしたり、窮地に陥ってキス(まあ、人工呼吸と言うべきか)したりする描写もある。この間の『コヴェナント』もそうだが、メニーはハンクの不毛な欲望が生みだした独身者の機械であり、自足的セクシュアリティを示すもの…なのだが、女性の機械ではなく、男性の死体だというところがちょっと面白い。

 全編を通して、人間社会は異性愛的な領域だが、無人島とか森など他の人間と接点がないところはハンクにとってクィアなところだ。人間社会に戻る直前に、メニーとハンクが「もうここで二人で暮らそうか」みたいなことを言い始めるところがあり、社会から隔絶されたところに孤独ながらもクィアで楽しい空間が出現しかける…のだが、結局ハンクは人間のいる社会に戻る。一方でハンクは最後、人前でおならをするのだが、たぶんこのおならはマスターベーションの比喩だ(メニーとハンクの会話で、ハンクにとってはマスターベーションと人前でのおならが禁忌となっていることを示す台詞がある)。最後はメニーが海に帰っていく(人間社会から離れて死の領域に戻る)のだが、ハンクは死体に仮託しなくても自足的なセクシュアリティを身につけた…ってことになるのかもしれない。ただ、この終盤はけっこうとっちらかってて今までかろうじて保っていたリアリティがなくなるので、あまりうまくいってない気がする。

 なお、ベクデル・テストはパスしない。サラと娘が短い会話をするところがあるが、ハンクとメニーについての話だ。