自己顕示欲と鼻血〜『クロニクル』(ネタバレあり)

 『クロニクル』を見てきた。既に話題の映画なのでもうあらすじは書く必要ないし、どこが面白いとか言う必要すらないのかもしれないと思うのだが、シアトルを舞台に超能力が使えるようになった高校生三人の青春の光と影(というか爆発というべきか)をPOV(とも言えないかもしれないが)で撮るという映画である。

 いろいろよく考えると欠点もあるのだが(あのご都合主義な視点の流動性は…とかあとで生きてない場面があるとか)全体的にはすごい面白かった…のだが、たぶん(1)何度も見せられていい加減飽きてきた『ブリングリング』予告編が上映開始直前に流れてキラキラしてるミドルクラスのティーンエイジャーどもに対する憎悪が高まった (2)行ったこともないのに悪いイメージを持っていたシアトル(だってグランジロックとシアトル系コーヒーを生んだ街だよ!)への偏見が助長される内容だった 二点の補正が入っており、私が暗黒面で楽しい映画だったので点がかなり甘くなっていると思われる。

 とりあえずたぶん勝因はちゃんと演技ができて魅力もある役者を主人公の三人にキャスティングしたことだろうと思う。同じようなPOV映画では『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』とか誰が出てたか全然覚えてないと思うが、この映画はまあはっきり言ってstar vehicleといっていいようなレベルで主演のデイン・デハーンの存在感がすごいし(『欲望のバージニア』に引き続き童貞映画に出演)、哲学かぶれなのになぜか人気者らしいマット役のアレックス・ラッセルや、バラク・オバマ登場以前の映画では考えられなかったであろう頭が良くてイケてて人気者のアフリカン、スティーヴを演じたマイケル・B・ジョーダンもキャラが立っていて生き生きしている。この三人が集まる場面にはすごく心地よいケミストリがあるので、それが後半だんだん崩れていくところにかなり衝撃がある。

 あと面白いのは、主人公アンドルーはひたすらカメラで自分や周囲の人を撮影するんだけど、もう一人この映画にはやたら何でも撮影するケイシーという女の子が出てきて、マットがこの子に惚れるという展開があることである。アンドルーは超能力を手に入れるまでは友達もあまりいなくて暗い子で、撮影したビデオも全部ブログで公開とかしているわけではないようで自己顕示欲があまりないし、最後もアンドルーのせいでいろいろシアトルがヤバいことになったりするのだが、一方でケイシーはブログ女で政治活動とかしていて、まあ高校生的な理想主義っぽさはあるのだがはるかにアンドルーより社交的で真面目な人物として描かれている。『ストラッター』もそうなのだが、どうもアメリカ映画では女オタクと男オタクがいたら女のほうが地に足がついてるっていうことになってるらしい。それでマットはカメラ男でひたすら暗いアンドルーとは親族でありかつ親友だが、カメラ女で明るく真面目なケイシーにはずっと惚れていると…やたらあやしい思想系用語を振り回すマットはかなり自己顕示欲があるタイプで、カメラ男やカメラ女とばかりつるんでいるのはそれを暗示しているのではと思うのだが、途中からマットは撮影する側(記録者)になり、最後はカメラを山に置いて音だけで去って行く。これはマットが自己顕示欲を捨ててもうアンドルーもケイシーも必要としなくなったという意味だろうと思う。まあ踏み台にされたケイシーはどうなるんだという疑問はあるが…

 細かいところですごく面白かったところが二点ある。この映画は超能力キャパシティがオーバーすると鼻血が出るという設定で(三人はなんらかの力で接続されているらしいので、一人が力を使いすぎると他のヤツも鼻血を出す)、これ自体はよくあるかなぁと思うのだが、この映画ではスティーヴが猛烈に鼻血を出した場面で「生理が来た!」みたいなことを言うのである。これは『キャリー』(←未見)をイメージしているのかもしれないが、共同生活をしている女性は生理周期まで似てくると言う話(あやしいが説明する仮説は一応あるらしい)があるのでちょっとそれを思い出した。同時に出血させることで男性同士のつながりを表現するっていうのは身体を使った映画の表現として面白いと思う。

 もうひとつ面白かったのは、アンドルーが一人で部屋にこもって襲撃準備をする場面でデヴィッド・ボウイのジギー・スターダストが流れるところである。この映画はけっこう音楽の使い方が禁欲的だと思うのだが、この場面はここぞとばかりにボウイを流して、アンドルーたちの超能力の原因がおそらくは星の世界にあることを思い出させるとともに、ふくれあがった自己顕示欲が行き詰まったアンドルーが転落していくことを上手に暗示している。あと、この少し前でアンドルーがクモをつぶす場面はこの歌の歌詞に「火星のクモたち」が登場することへの目配せなのかもしれない。