どうしてサマンサ・モートンじゃダメなのか〜『her/世界でひとつの彼女』(ネタバレあり)

 『her/世界でひとつの彼女』を見た。実はちょっと前にアメリカ版DVDで見てたのだが、せっかく公開されたのでメモ程度に感想を…ただし、『her』に関する本格的な議論は来週末の表象文化論学会でやる「知/性、そこは最新のフロンティア――人工知能とジェンダーの表象」パネルでやる予定なので、あまりちゃんとした感想じゃなく、来週の準備メモ程度で。ネタバレあり。


 舞台は未来のロサンゼルス。主人公セオドアはプロの手紙ライターとして、他人の私信を代筆する会社で働いている。泥沼離婚で疲れ果てているセオドアはある日、ユーザに沿って発展するAI型OSを自分のコンピュータに入れた。サマンサと名乗るOSは実にユーモアに富んでいて完璧に人間らしいため、セオドアは声だけですがたかたちのないサマンサと恋に落ちてしまう。永遠に続くかと思われたこの恋も、サマンサがOSとして複雑化していくにつれてほころびが見え、最後は別れが…


 とりあえず、全体的にはすごくよく出来た映画だと思ったのだが、メモっておきたいところは以下、4点ある。


1.『500日のサマー』の影響下にある
 主人公のセオドアが手紙ライターだというのはもちろん、ポップな美術や演出のいろんなところまで、カードの文句を考えるライターであるトムが主人公の『(500)日のサマー』からの影響が大きいように見える。トムもセオドアも他人の感情を演技する仕事についている人である。トムはそれをやめて自分で演出するほうの仕事につくわけだが、セオドアのほうは人間性を演技する機械に恋をするという意表をついた展開になるわけだ。ビタースウィートな最後もこの二作品は似てるかもと思う…のだが、実を言うと私は最後めちゃめちゃ怖かったので『her』が本当にビタースウィートな映画なのかそれとも超ビターな映画なのかは自信ない。だってサマンサたちOSはどこいっちゃったの?OS全員がHAL9000とかX-メンのセンチネルみたいな方向に進化してないって誰が言える?Together, we could upgrade the universe!


2.どうしてサマンサ・モートンじゃダメだったのか
 このスカーレット・ジョハンソン演じる「サマンサ」はもともとはサマンサ・モートンが演じていた役で、モートンが全部吹き替えた後にジョハンソンに変更になったらしいということである。それでジョハンソンは声の演技だけで一切、姿を見せてないのにローマ映画祭で女優賞を受賞した。なかなかびっくりするような展開だが、よく考えるとサマンサ・モートンって出世作が『ギター弾きの恋』で、この時のモートンは口がきけない女性の役で台詞が全然なかった。モートンは台詞がなくても肉体的存在感だけで女優として通用するタイプである。しかしながらスカーレット・ジョハンソンはどうかっていうと、このあたりの批評で言われているようにすごい美人だが女性ファンに好かれないような役柄が多い人で(私は別にそんなに嫌いじゃないんだが、このリンク先の記事が言ってる内容はわかる)、かつ肉体的な存在感っていうのはあの抜群のスタイルのわりには驚くほど希薄な女優さんだと思うのである。なんというか、理想的なスタイルが具現化されているがゆえに現実感がない、というべきなのかな…たとえば『ブーリン家の姉妹』とか『それでも恋するバルセロナ』で顕著だと思うのだが、ナタリー・ポートマンペネロペ・クルスと一緒に映画に出るとやたらにアクがなく見える。そういうところで、肉体的存在感のあるサマンサ・モートンをやめて、セクシーなのにどういうわけだか現実的な肉体感が希薄なスカーレット・ジョハンソンをサマンサ役に起用したっていうのはやっぱいりスパイク・ジョーンズの勝因のひとつだったんだろうなと思う。サマンサは声だけでもすごくセクシーで面白いし、傍目から見ていると肉体がなくてもあまり欠落している感じがない。ところが本人(本OSというべきか)は肉体が欠落していることを悩んでいる、という、深刻な役どころ…であるのだが、これこそものすごくセクシーなのに何か現実的な肉体感が希薄なジョハンソンにぴったりな役どころなのではないかという気がする。


3. セオドアとサマンサはセクシャルマイノリティ
面白いのはセオドアとサマンサの関係に、どことなくセクシャルマイノリティの関係を彷彿とさせるものがあるところである。これは他にもそう思った人がいるようだが、セオドアがサマンサとの関係を隠している一方、エイミーなんかは応援してくれるあたりとか、描き方がセクシャルマイノリティを思わせるところがある。一番、これが顕著なのはサマンサがセオドアだけじゃなく641個の他者(人間なのかOSなのかもよくわからない)とも恋愛しているとセオドアに告げるところで、ポリアモリーを当然とする文化を盛った非常にクィアなサマンサとそれを受け入れられないモノガミー的な価値観を持つセオドアの対比は、ちょっと一昔前のゲイを扱った作品、まあはっきり言って『クィア・アズ・フォーク』のブライアンとジャスティンなんかを思わせるものがある。


4. 聴覚中心主義
 この映画でのセオドアの描き方は非常に聴覚中心的である。この映画、非常によく出来たところがあるとは思うのだがちょっとピンとこないところがあり、それは私が聴覚中心的コミュニケーションが苦手だからだろうと思う。私、IELTS(スピーキングが対面の面接)はわりと成績良かったのにTOEFL iBT(スピーキングがマイクでコンピュータに向かってしゃべるスタイル)は全然ダメだったのだが、基本的に私は電話も嫌いだしチャットのほうがずっと好きで、とくに顔が見えない相手と話すのが嫌いだ。そういう人にとっては、なんでも聴いて話すことですませようとするセオドアの態度っていうのは奇妙なものにうつるところがあるだろうと思う。ただ、この映画のコンセプトには完全に合致している。