李相日監督の『怒り』を見てきた。
ある夫婦惨殺事件とその犯人である山神の逃亡を主軸に東京、沖縄、千葉で3つのストーリーが展開するものである。全てのストーリーに、ある時点でこの事件の犯人ではないかと疑われることになる若い男性が登場する。形式としては最後に犯人がわかるので、一応ミステリになっている。
とにかく大変気合いの入った作品で、よくできている。演技もしっかりしているし(相当リハーサルしたと思われる)、弁当とかコンドームといった日常生活で使うものをうまく取り込んだ絵の作り方もとても巧みで、ちょっとした台詞や動きで登場人物の感情がわかるようになっている。全ての物語で、ある登場人物を「犠牲」にすることによって他の者に変化がもたらされるというような展開がある。ただ、ストーリーごとにちょっと出来不出来があるかな…という気はした。
一番良くできていると思ったのは東京のストーリーラインである。そこそこリッチでイケてるゲイの優馬(妻夫木聡)が発展場で出会った謎めいた無職の男、直人(綾野剛)と同棲するようになるという展開なのだが、非常に丁寧な恋愛ものになっており、恋人同士の会話なんかもナチュラルだ。特に終盤、身元不明の恋人である直人が殺人犯なのではないかという疑心暗鬼に陥った優馬が帰ってこない直人に何度も電話をかけた後、いざ警察から電話がきたら直人を知らないと否定するところが、演技はわざとらしくないのに非常に劇的で、聖書に出てくるペテロが逮捕されたイエスを知らないふりをする場面を思い出した。優馬が発展場で直人と出会った時にちょっと暴力的すぎるとか、細かい描写では気になるところもあったのだが、全体的に直人が自分の身を犠牲にして無償の愛により優馬に人生の意義を教えるいけにえの山羊みたいに描かれていることもあり、コンセプトには合った描き方をしている気がした。お墓や肉親の死などわりと宗教的モチーフが出てくることもあり、このストーリーラインが一番、この映画の中ではスピリチュアルである。
千葉の漁港のストーリーラインは田舎町の閉鎖性や親子関係などを描いた家庭劇である。おそらく何かの障害があると思われる愛子(宮崎あおい)と、それを気遣う父の洋平(渡辺謙)、突然やってきて愛子と付き合うようになった不器用な若者、田代(松山ケンイチ)の関係を中心に展開する。家出して売春をしていた愛子が田舎町でずいぶん陰口を言われていることについて、男はやけになって女遊びしても見逃してもらえるのに、女は許してもらえないなんて…とダブルスタンダードを指摘する洋平の台詞なんかは実に心に迫るものがある。一方で洋平にも、娘はおそらくまともな男とはつきあえないのではという親心ゆえの偏見があることも描かれており、このあたりは鋭い。ただ、最後の落とし方はちょっと強引というか、あれでも楽天的にすぎるのではと私は思った。犠牲にされかけた田代が大きな困難の末に回復されるという終わり方で、前途多難さを予感させる終わり方ではあるのだが、それでもあの展開で田代が電話するかなーと…
一番ストーリーラインが薄いのが沖縄の物語である。このストーリーは基地問題が盛り込まれた政治劇なのだが、本土からやって来た風来坊、田中(森山未來)の動機なんかがよくわからないというのはまあそういう話だからいいとしても、米兵に性暴力を受ける泉(広瀬すず)から主体性がほぼ奪われているのがどうかと思った。一番の当事者である泉の内面にフォーカスをあてるべきだと思うのだが、話が完全に泉の性被害にショックを受けた辰哉(佐久本宝)の苦痛を描くというふうになっており、泉は犠牲にされっぱなしで、どういうわけだか男性同士で代理戦争するみたいなありがちな展開になってしまう。なんでこの話だけこんなに薄っぺらいんだろうと思ったら、なんでも原作にはあった泉主体の展開などがカットされているそうで、原作は未読なのだがそれはたぶん誤った選択だったのでは…と思う。前に見た『恋人たち』もそうだったのだが、この手のすごくちゃんとした複数プロットの日本映画で、女性虐待を扱った話だけなんか薄くなるのはちょっとどうにかならないのかなぁ…と思った。
なお、この映画はベクデル・テストはパスしない。明日香と泉が話すところはあるのだが、洋平もいるので女性同士の会話になっていない。