アメリカの家庭劇みたいな演出でしっくりこなかった~『ルナサに踊る』

 ブライアン・フリール作『ルナサに踊る』を紀伊國屋サザンシアターで見てきた。長木彩訳、シライケイタ演出によるものである。同じ演目を別の演出で新型コロナウイルスが流行する直前に一度見たことがあるので、今回は2度目だ。

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 既に前回見た時にあらすじは詳しく書いたのだが、この作品は1936年のドニゴールの田舎を舞台に、マンディ家の5人姉妹の生活をこの家で大切に育てられている非嫡出子であるマイケル(横山陽介)の視点で描いたものである。マイケルは1936年時点では子どもなのだが、子どものマイケル自身は舞台中に登場せず、大人のマイケルが語り手のような形で子どものマイケルを代弁する。マンディ家には良くないことばかり起こるのだが、暗いだけの芝居ではなく、多少は笑うところもある。

 前回、劇団民藝アイルランドものである『ヒトジチ』を見た時はあまりにも演出や演技がダメすぎたのでちょっと警戒していたのだが、『ルナサに踊る』は演出家が違うためか、この時よりはかなり向上している。セットも演技もけっこう良くなっている。ただ、序盤はわりとみんな台詞が固かったのと(終盤は比較的良くなった)、最後までけっこう噛んでいるところはあった。歌やダンス、着るものについては以前に見た同演目と同じでかなり改善の余地がある(このへんは日本にアイリッシュダンスが踊れる役者さんがいるとはあんまり思えないので難しいだろうが…)。

 しかしながら一番気になったのは、全体的にアイルランドの芝居というよりはアメリカの家庭劇みたいなスタイルで演出していて、どうもそのへんが台本にあっていなくてしっくりこない感じがするということだ。登場人物が不愉快な気分になって感情が高ぶるとやたら叫んだりするのだが、それはアメリカ風の感情表現で、イギリスやアイルランドの演劇なら大声を出すんじゃなくて皮肉な調子で言うところなのでは…と思ったところがけっこうあった。また、登場人物がどことなくモダンな感じの他者からの承認とか幸せを求めているような印象を受けたのだが(このへんもなんかアメリカの家庭劇っぽい)、この芝居のポイントはそこではなくて、カトリシズムによる抑圧と、いくら抑圧してもこぼれ出てくるアイルランドの非カトリック的伝統(それこそ「民芸」的なもの)の対立ではないかと思う。劇団民藝はわりとテネシー・ウィリアムズとかをやっているのだが、この『ルナサに踊る』は全体的にちょっと『ガラスの動物園』(構成じたいはかなりこの芝居に似ている)とか『欲望という名の電車』に近い感じに見えて、そういう作り方が30年代のアイルランドという設定に合致していないような気がした。