クイルが聴かない音楽は誰のためにかかるのか~『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME 3』(ネタバレあり)

 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME 3』を見てきた。

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 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーはノーウェアの整備を続けていたが、ロケット(ブラッドリー・クーパー)が突然襲撃され、大ケガをして倒れてしまう。ロケットの治療を試みる一行だが、ロケットを作った企業が設定したコードを入手しないと治療ができないことがわかる。どうやら作り主がロケットを狙っているらしいということは理解しつつ、一行はロケットを作ったハイ・エボリューショナリー(チュクウディ・イウジ)の会社であるオルゴコープに向かう。

 現在のような形のガーディアンズ・オブ・ギャラクシーはこれで三部作完結ということで、これまでの話を綺麗にまとめた作品である。一方でだいぶここまでのガーディアンズ・オブ・ギャラクシーシリーズとは違う新しいことをしており、けっこう大人な感じの作品にもなっている。3作の中では一番きちんとした人情話なのでは…という気がする。

 リーダー格であるピーター・クイル(クリス・プラット)よりはロケットに焦点をあてている。ものすごい苦労をし、虐待され、友達を失ってやっと家族らしい家族を見つけたロケットの生き様がかなりドラマティックに描かれている。ブラッドリー・クーパーの声の演技や、表情や動きを創り上げる丁寧な特撮のおかげもあり、陰鬱なラボで苦しみつつ外の世界を夢見ていたロケットが、なぜ優しい心を不機嫌そうで荒っぽい外面に隠したタフな前科者になったのかが語られる。賑やかな庶民の街らしいノーウェアや、サイケデリックで生物的なオルゴコープは派手で、暗くてじめじめしたラボとの映像的な対比もしっかりしている。他方、クイルとガモーラ(ゾーイ・サルダナ)の関係などはあまりじめじめしない爽やかなオチをつけており、ここもしっかりまとめている。

 映像やアクションはかなり凝っているのだが、この作品は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズにしては政治的である。全体的に実験動物の虐待や、災害時に動物を置いて避難することを批判する内容になっている。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は、お話はアメリカの観客が大好きな父子関係などが主題であまり政治色がなく、パピーゲートの時にパピーズに推されていたり、主演のクリス・プラット保守的な教会に通っていたりすることもあり、むしろ保守系のファンもわりといるのではないかと思うのだが、アニマルライツというのはそのあたりからいわゆるwokeと見なされそうなテーマである。ハイ・エボリューショナリーの身勝手さにより動物たちが苦しむ様子がけっこうしつこく描かれているのだが、たぶん『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の客層だとこれくらいがっつりやらないとわからないだろうと思ったのかもしれない。

 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズといえばサウンドトラックの選曲がポイントだが、ちょっとびっくりしたのは、今作はレディオヘッドの「クリープ」のアコースティックバージョンで始まることである。ここでもロケットがメインで映るのだが、あの明るくて単純な性格のクイルが内省的なレディオヘッドなんか聴くわけないだろ…と思う一方(実は私も聴かない)、自分がcreep(キモい人)でweirdo(変人)で居場所がないということを歌った「クリープ」はロケットの内面にピッタリだし、いかにもロケットが好みそうな音楽である。つまり選曲からして本作はロケット志向でいきますよということを最初から言っているわけだ(なお、私はルッキング・グラスの「ブランディ」も嫌いなのだが、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー VOLUME 2』でのこの曲の使い方は極めて効果的だと思ったので、ジェームズ・ガンは基本的に私が嫌いな楽曲を使うのが本当にうまい)。最後のフローレンス・アンド・ザ・マシンの「ドッグ・デイズ・アー・オーヴァー」も内省的な解放の歌で(そのわりに手拍子が入ったりするのがグラムとかパンクっぽくて面白いのだが)、正直あんまりクイルの趣味ではなくて、いろいろなものを捨てて前に進むことで生き抜いてきたロケットっぽいと思う(この曲は一応、ガーディアンズみんなの人生を表してはいるわけだが)。中盤のハートとかレインボーはけっこうクイルの趣味だと思うのだが、最初と最後だけ内省的な歌になるのが本作が誰が主人公なのかということを示唆している気がする。