どたばた劇と反転〜カクシンハン『じゃじゃ馬ならし』(ネタバレあり)

 カクシンハン『じゃじゃ馬ならし』を見てきた。演出はいつもと同じ木村龍之介で、キャタリーナの役は真以美(グルーミオとダブリング)である。ペトルーチオとスライも同じ役者(齋藤穂高)で、これはけっこうよく見かける配役だ。私は『じゃじゃ馬ならし』は正直戯曲じたいが好きでは無いので論文書いたことあるけど)そもそも見に行く前にどうしようかなーと思ったのだが、行ってみると大変面白かった。

 『じゃじゃ馬ならし』の問題点は、そもそも台本にかなり問題があることである。この作品ではスライという酔っぱらいのダメ男にイタズラ好きな貴人が劇中劇を見せてからかうという枠があるのだが、この劇中劇の枠が最後に解決されていないという作劇上かなり重大な問題がある。この他にも実は『じゃじゃ馬ならし』にそっくりな別の戯曲が見つかっていていろいろ本文のほうにややこしい問題があり、どういうふうに上演されていたものなのかとかいろいろあやしいところのある戯曲だ(まあ、この頃の作品としては、テクストにあやしいところがあるというのは珍しくはないのだが)。さらにこの枠が解決されないせいでキャタリーナがペトルーチオに「馴らされ」て終わりということになっており、非常に性差別的だし、その上今みるとまるでカルト宗教の洗脳か捕虜虐待かと思うような展開があって演出によってはドン引きする。さらにこの芝居の暴力的な要素というのは男女間の関係に関わるものだけではなく、出てくる連中がかなり荒っぽく召使いを虐待したりケンカしたりするので、もう少し後に書かれた成熟したロマンティック・コメディに比べると全体的にものすごく粗野な印象を与えることもある。

 このプロダクションはそういうところをかなり理解して演出しており、貴人たちがスライをからかおうと屋敷に連れ帰り、じゃじゃ馬ならしのお芝居を見せるという枠が強く保たれている。もともとハコが柱だらけの狭い部屋なのだが、ちょっと閉塞感のあるごちゃごちゃした雰囲気は若干不条理劇ふうだ。スライとペトルーチオが同じ役者で、まるでスライが芝居にどんどん取り込まれていくような展開になっており、なんと途中までスライ/ペトルーチオは手を鎖につながれ、ほとんど動かないまま台詞だけを言うという、まるでスライの脳内だけで話が展開しているみたいな演出になっている(箱は三方に座席があるもので、実は私が座った席が真横の席だったため、ペトルーチオがキャタリーナを口説く場面はペトルーチオの背中しか見えず、なんかペトルーチオが脳内キャタリーナを口説いてるみたいでちょっと狂気を感じた)。一方でどの役者もやたら馬を模した棒を持って、これに乗って入退場したりする演出が用いられており、ペトルーチオ以外の役者たちはかなり暴れ馬みたいな感じでドタバタ動いていて、対比がある。グルーミオとキャタリーナの二役を演じる真以美のエネルギッシュな美しさも、ペトルーチオの「馴らし手」にしては動きが少ない感じと強いコントラストがあると思った。

 全体的にドタバタした喜劇的演出が続き、最後にキャタリーナの妻の従順を説く演出があるのだが、ここで最後の最後にもとの台本には無い完全などんでん返しがある。キャタリーナがスピーチのあとでペトルーチオを撃ち、まるで夢(あるいは悪夢)が終わったかのように劇中劇の枠が戻ってきて、倒れたスライに対して「馬鹿な男」などという言葉が投げつけられて芝居が終わるのである。芝居全体が泥酔したスライの悪夢だったかのような演出で、ドタバタ劇的ではあるが若干、シュールだ。これは非常にうまい演出だと思う。

 そんなわけで大変面白く、演出も凝っていて演技も良いプロダクションだったと思うのだが、ひとつ思うのは、そもそも『じゃじゃ馬ならし』みたいにかなり演出で変えないとうまく上演できない芝居をいまだに高い頻度で上演する必要があるのかなーということである。こういう感じでうまくいけばいいが、私は『じゃじゃ馬ならし』はシェイクスピア劇の中ではだいぶ出来が悪いほうだと思うのし、あまりうまく演出できなくて悲惨な失敗に終わるプロダクションもたくさんあることだろう。そんならシェイクスピア以外の同時代の劇作家の作品で、あまり上演されないが実は上演効果が高いものをやってたほうがいいんじゃないかとよく思う。真以美さんの『モルフィ公爵夫人』とか、見たいよね?

 ちなみに、最後に宣伝で恐縮だが、カクシンハンのハムレットについて私が書いた原稿が近々、某専門誌に載る予定である。