私の名前はジョイ(喜び)〜『ルーム』

 レニー・アブラハムソン監督『ルーム』を見た。

 ヒロインであるジョイ(ブリー・ラーソン)は少女時代に「オールド・ニック」と呼ばれている男に誘拐され、7年間も監禁されている。監禁の間に息子のジャック(ジェイコブ・トレンブレイ)が生まれてもう五歳になるが、オールド・ニックが失業。身の危険を感じたジョイはジャックに死んだふりをさせ、脱出をはかる。なんとか脱出は成功して家族のもとに戻ることができたジョイとジャックだが、ひどいトラウマに悩んでいるジョイと、外の世界をはじめて見るジャックにはいろいろな問題が…

 全体的に抑えた演出と役者陣の演技が見物の映画である。ジャックの五歳の誕生日から始まるだが、監禁という異常な状態が日常になってしまっているところから始まり、そこから少しずつこの2人の暮らしぶりが全く普通ではないということが明かされていくので、かえって不穏な感じがする。中盤の脱出劇は極めてスリリングで息をのんでしまうし、その後の心の傷に苦しむジョイとジャックの描写も丁寧だ。息子を守ろうとするジョイを演じるブリー・ラーソンと、とにかく可愛らしく、賢いジャックを演じるジェイコブ・トレンブレイの演技はもちろん、とにかく頼りになるジョイの母ナンシーを演じたジョアン・アレン(ジョイとナンシーの会話でベクデル・テストはパスする)、強姦犯の子どもであるジャックをどうしても認められず弱気になってしまうジョイの父ロバートを演じるウィリアム・H・メイシー、ジョイの再婚相手で人間のできた人であるレオを演じるトム・マッカムスなどもとても達者な演技を披露している。性暴力によるトラウマを描いているにもかかわらず、実際に性暴力の描写が全く無いところも良い。女性の身体や暴力をセンセーショナルに見せなくても、性暴力や虐待のひどさというのは十分に描くことができるし、そのほうが作劇として巧みだ。さらにお金のために報道のインタビューを受け、そこでちょっとした質問に潜む無神経さに傷ついてしまってジョイが自殺をはかるという展開はとても哀切だ。

 展開の中で一番ぐっときたのは、ジョイが自分の名前をジャックに教えるところである。基本的に監禁されていた部屋ではジョイは「マ」(Ma、お母さん)であって、息子以外にまともな人間関係が無いため、名前を呼ばれることが全くない。おそらくオールド・ニックにもふだんは名前を呼ばれていないのではないかと思われる。オールド・ニックも本名ではなく、これは英語のスラングで「悪魔」という意味だ。つまりこれは、父のない息子(後でジョイが話しているようにオールド・ニックのような男は本当の父とは呼べないから)を悪魔から守る無名の聖母ということなんだろうと思う。ところがジョイは五歳になったジャックにしっかり自分の名前は「ジョイ」だと教える。「ジョイ」(Joy)は「喜び」という意味で、ジョイはこれまで7年間、自分の名前が象徴するものである喜びはほとんどないところで、個人としての名前すらほとんど呼ばれずに暮らしてきた。ジョイが自分の名前を息子に面と向かって告げる場面は、人が人間らしく名前で呼び合う人間の世界に戻りたいという意志を強く表した場面である一方、息子には人間らしい喜びを教えたいという願いを示していると思う。