グロテスクとユーモア〜『エンジェルス・イン・アメリカ』

 トニー・クシュナーエンジェルス・イン・アメリカ』を両国のblack Aで見てきた。tptによる上演で、門井均演出、第一部・第二部に分かれていて全部で6時間弱くらいある。初演は1990-1993年だが、第二部「ペレストロイカ」は2013年に改訂されており、これは日本初演だそうである。

 話は80年代半ばのニューヨークが舞台である。あらすじはかなり説明しづらく、この時代のエイズの流行をある点ではリアルに、ある点ではシュールに描いた作品だ。エイズに苦しむゲイの青年プライアーと恋人であるユダヤ系のルイス、クローゼットなゲイである法廷書記のジョーと妻のハーパー(ふたりはモルモン教徒である)、実在の弁護士であるロイ・コーン(一時期ドナルド・トランプ代理人だったらしい)、三組の物語が交錯する。この他にプライアーの親友であるアフリカンの看護師兼ドラァグクイーンであるベリーズ、プライアーの母であるハンナが主要人物として登場する。
 プライアーの病気に脅えたルイスは恋人を振ってジョーと付き合いはじめ、夫のジョーに愛されていないのではと思ったハーパーは精神的に極めて不安定になりはじめる。恋人に去られたプライアーはベリーズに助けてもらいながら病気と闘い、やがてプライアーの夢に天使があらわれるようになる。ロイ・コーンは赤狩りの急先鋒で非常に汚いことをしてきた弁護士で、エイズで死にかけているのだが肝臓癌のフリをし、一方でジョーを可愛がってワシントンDCの司法省でジョーを働かせようと画策している。息子のジョーがゲイだと知ったハンナはソルトレイクからニューヨークに出てくるが、ひょんなことからプライアーを助けるようになる。プライアーは天使と戦って生き延びるが、ロイ・コーンは自分が電気椅子に送ったエセル・ローゼンバーグの幻影に脅えながら死んでいく。ルイス、ジョー、ハーパーはそれぞれ別れる。最後はプライアー、プライアーとは別れたが友人に戻ったルイス、ベリーズ、ハンナがセントラルパークのベセスダ噴水で天使の像を見ながら話しているところで終わる。

 この芝居はおそらくかなり大がかりな特殊効果やプロジェクションなどの技法を使って上演することもできると思うのだが、このプロダクションは特殊効果の点ではわりとシンプルで、白い壁にふつうの照明をあて、ほとんど小細工は使っていない。ただ、セットは意図的にごちゃごちゃとした雰囲気を目指したもので、左側には透明な椅子を積み上げ、右側にはバーのようなテーブルや寝椅子などを置き、中央部にもテーブルなどいろいろな物を置いている。車輪付き衣装掛けをドアとして利用しており、ここをくぐって登場人物が入場するというような演出もある。同じ舞台で一度にいろんな場面が起こったりもするし、ひとりの役者が何役も演じる。何しろ6時間弱もあるのでかなりタフな芝居である。

 初めて見たのだが、とくかく戯曲の完成度は凄いと思う。三組の全く接点がなさそうな人間たちをきちんと絡ませてそれぞれに納得いく終わり方を用意し、そつなくまとめている。前半の病気の告知シーンはとてもよく書けており、プライアーがカポジ肉腫を見せて病気をさらりと告げるとルイスがすごいショックを受けるところと、ロイ・コーンが医者にエイズのことを告知されて「自分は男とセックスするがゲイではない」とか「肝臓癌にしとけ」とかやたら横暴な発言をするところの対比が非常に鮮やかだ。何しろつらい病気や人間同士の確執の話なのでかなりヘヴィなのだが、一方でけっこう気の利いた台詞もあって笑える。最後のプライアーのスピーチは、ちょっと長いと思うところもあるが基本的にはユーモアがあり、明るいトーンで終わると思った。

 一言で言うと、この芝居のキーワードは「グロテスク」なのではないかと思った。ここで言うグロテスクというのは、いささか気味が悪いが単に不愉快というのではなく、何か心引かれるところがある奇怪さである。原作戯曲にもいろいろなグロテスクな要素があるのだが、この演出はそれをシンプルなやり方で強調しているように思った。
 プライアーはエイズで体中に肉腫ができてしまい、またお尻から出血するなどのたいへんな目にあうのだが、自分の体を気にするプライアーに対してエセルが体の斑点を見ながら「ガンなんでしょ、これ以上人間らしいことなんかない」みたいな台詞でさらっと流すところからもわかるように、人体から血が出たり腫れたりするのはグロテスクだが人間らしいこととして描かれていると思う。これはハーパーもそうだ。精神安定のための薬をたくさん飲んだハーパーが南極に行った夢を見て、そこでなんかモフモフしたものを出産するという幻想を語る。この台詞だけで語られる異常妊娠の様子はグロテスクなのだが、あまり恐ろしい感じはせず、むしろちょっとユーモラスで、夫に愛されずつらいめにあっているハ−パーの人間味を示すものとして淡々と語られていると思った。このプライアーとハーパーの描写では、様相は違っていても病に苦しんでいる人々が直面する様々なグロテスクなものを人間らしいもの、恐れる必要のないものとして描いていると思う。
 一方でロイ・コーンについては、最初のジョーを呼びつけておいてサンドイッチを食べながらひっきりなしに電話をかけまくる場面からして、この2人とは別種のグロテスクさを感じさせるような演出になっている。ホモフォビックなのに男性とセックスするのが好きで、自分の病気も否認し、権力のために人を操るのが大好きなロイはとにかく矛盾に満ちた人間だ。彼のグロテスクな存在感については肯定されているとは言えず、むしろどんどん孤独な死という悲惨な運命につながっていくものとして描かれていると思った。ロイのグロテスクさはプライアーやハーパーが帯びているグロテスクさとは異なり、もっと惨めなものである。
 天使については、黒い翼をまとって歪んだ乳房(もちろん作り物で、不自然にねじれてる)を丸出しにして出てくるというヴィジュアルである。これは明らかに人間とはかけ離れたグロテスクさを持っており、台詞も人間離れしている。視覚的な面で一番奇怪といえるのはこの天使なのだが、なんでもアメリカの天使はヴァギナを4つ持っていてプライアーに物凄い快楽をもたらしたそうで、独特の奇矯なエロティシズムを持った神秘的存在として描かれている。

 そういうわけで、三種類のグロテスクさをうまく醸し出した演出が良かったと思うのだが、いくつか気になる点もあった。一番気になったのはけっこう台詞のもたつきやトチりが多く、とくに早口でしゃべらないといけないところでつっかえたりするのが見られたことである。全体的に台詞に難しいところがあると思うし、タフな芝居なのでこれは少々しょうがないところもあるのかもしれない。プライアーだけ抜群に台詞回しが美しいと思ったのだが、なんと演じている寺本一樹が実際に第二部の翻訳者だということで、まあそれなら台詞が板に付いているのは当たり前なのかなと思った。
 あと、細かいところだが、最初にロイとジョーが話す場面で出てくるサンドイッチと電話が椅子にのせられて隅っこに片付けられ、そのまま何場が演じた後また同じサンドイッチが取り出されて食べものとして使われるという演出はどうなのかなと思った。舞台から一度はけるならともかく、ずーっと隅っこに放置されていたサンドイッチがまた使われてもあまり美味しそうとは思えないので、もう少しはけ方を工夫したほうがよかったのではと思う。というのもこの芝居の前半では飲食を介したコミュニケーションが重要で、ジョーとルイスがホットドッグを食べて仲良くなるという場面もあったりするので、もう少し食べものの入退場には工夫をしてもいいんではという気がした。