正攻法に人生がつらい〜Kawai Prooject『ゴドーを待ちながら』

 こまばアゴラ劇場でKawai Project『ゴドーを待ちながら』を見てきた。私の指導教員である河合祥一郎先生の新訳で、演出も河合先生がつとめている。


 おそらく私が今まで見た中では一番正攻法で丁寧な『ゴドーを待ちながら』である。セットは何もない舞台に木が一本あり、衣装も浮浪者風の地味な服装で、いけすかないビジネスマンふうのポッツォの衣装や奴隷労働にさらされ搾取されているラッキーの衣装についてもあまり奇はてらっていない。イアン・マッケラン版はなんか暗い中にもほのぼの老人力全開という感じになっていたし、東京乾電池版はヴラディーミルとエストラゴンがかなり若くて希望がない若者の話になっていたところがあったのだが、このこまばアゴラのプロダクションはヴラディーミルが原田大二郎エストラゴンが高山春夫で、かなり個性の違うおじちゃま2人が不条理漫才的なものを繰り広げる展開になっており、台本を読んで読者が想像するものにかなり近い演出になっていると思った。新訳の台詞もわかりやすく、役者も皆明晰な台詞回しでそつなくこなしている。

 で、オーソドックスな『ゴドーを待ちながら』というのは、とにかくつらくて眠い中にハッとするような笑いや人生に関する鋭い考察が秘められているというものになる。基本的に「何も起こらないのが2回ある」とか言われているような戯曲だし、また私は学部の時の演習科目で「ベケットは芝居を見ることのつらさを最も考え抜いていた劇作家だ」と教わってそれ以来これを心に留めておくようにしているのだが、本当にただただ何の解決もなく続いていくつらく鈍い人生を象徴するような芝居が『ゴドーを待ちながら』である。こういうお芝居は面白くてハラハラするようじゃダメで、時計をにらんで「ああいったいいつこの苦しみが終わるんだろう」と思い、たまにはうつらうつらしながら(劇中でも皆寝ちゃったり失神したりしているので、作者も客が意識を失うのを想定して書いてると思う)、突然降って湧いたように出てくるやたら笑える展開や鋭い台詞に「こんなんじゃダメだ。起きて人生について考えなきゃ」と思って起こされるようでなければならないと思う。このプロダクションはまさにそういう『ゴドー』で、そんな中でひとりだけ覚醒し、記憶し、人生の意味を問い続けようとしている原田ヴラディーミルが物凄くつらそうに見えてくる。原田ヴラディーミルはわりと論理的で、劇中で居眠りしたり失神したりしないよう気をつけているし、なんとか人生に楽しさとか生き甲斐とかを見いだそうと努力をしている。ところがそんなヴラディーミルが第二幕の途中で他の3人と一緒に木の下にぶっ倒れて「ああ、このまま起きたくないなー」という表情を見せる。この場面は基本的に皆寝っ転がってるだけで全然動かないのだが、個人的にはかなりスリリングな場面だったと思う。このままヴラディーミルが起き上がるのをやめて眠っちゃったら、それだけでこの戯曲の唯一の糸口が失われてしまうのではないか…という切迫感をかきたてられてしまった。


 そういうわけで、正統派に人生のつらさを考えさせてくれる『ゴドー』である。現代的な冗談を取り入れていて笑うところもたくさんあるし、主役の2人の息の合った掛け合いや、労働を搾取するポッツォが結局悲惨な運命に陥ってしまう展開なんかも、つらい中にも面白く見られる。