空間のまとまりに台詞が追いついていない印象〜鮭スペアレ『ハムレット』

 ザムザ阿佐ヶ谷で鮭スペアレ『ハムレット』を見てきた。

 以前見た鮭スペアレ『ロミオとジュリエット』に比べるとかなり洗練されてきている印象だ。オールフィメールでの上演にはちょっとクィアな雰囲気があるし、坪内逍遙の台本は古さからは想像できないくらい力がある。

 ただ、以前見た時は民家のいろんな場所で上演するということで、断片化された空間が断片化された台詞にわりと似合っているというところがあったのだが、ザムザ阿佐ヶ谷は木の箱で非常にまとまりのある空間だということに問題がある。『ハムレット』みたいなけっこう直線的な話をこういうまとまりある空間でやっている一方、独白だけは断片的に元テクストからばらして配置していたりするので、そこが非常に奇妙であまり良くないんじゃないかと思った。いくら短い上演だからといって「生きるべきか、死ぬべきか」の独白が墓掘りの場の直後にあるのは遅すぎるし(墓を見ることによって迷いが解決するんだから、あんなところで迷ってはいけない)、オフィーリアが狂ってから自分で「尼寺へ行け」のスピーチをするのもなんでオフィーリアが狂気に陥ったのかわからなくなるのであんまりよろしくない。しかもこの上演のオフィーリアはけっこう強そうというかちょっとやそっとで理性を失わなそうな感じがしたので、ボーイフレンドが完全におかしくなって尼寺へ行けとかなんとか言ってくるという、狂気というある種の選択肢の提示、つまりオフィーリアがハムレットから狂気を「学ぶ」きっかけなしに本人が狂ってしまうのは展開として薄い。

 あと、全員がそれぞれキャラクターを象徴するような動物を模した衣装を着ていて、それじたいは悪くないのだが、ガーツルードの衣装だけは良くない。ひとりだけ牛のでっかいオッパイみたいな襟巻をぶらさげているのだが、肉体性という点では対になるはずのクローディヤスは別に生々しいモッコリをぶらさげてるとかいうわけではない(角みたいな冠は性欲を表現してるんだろうなとは思ったが)。ガーツルードが1人だけグロテスクに物体化された女としての身体を追わされているので、なんかそういうつもりはないのかもしれないがミソジニー的に見える。