不在の中心としての家事~『ザ・ウェルキン』

 シアターコクーンシス・カンパニーザ・ウェルキン』を見てきた。ルーシー・カークウッドの新作の日本初演で、加藤拓也演出である。新型コロナウイルス濃厚接触者が出て休演があったが、再度上演できるようになった。

 舞台は1759年のイングランド、サフォークの田舎町である。11歳の少女を殺した罪で死刑を宣告されているサリー(大原櫻子)が妊娠しているかどうかを判断するため、助産婦のエリザベス(吉田羊)をはじめとする12名の既婚女性が陪審員として集められる。女たちがサリーの妊娠について議論するうちに、さまざまな秘密が浮かび上がり始める。

 冒頭以外は裁判所の1室で展開されるという点で『十二人の怒れる男』に似ているのだが、ここに出てくるのは20世紀の男たちではなく、家事で手一杯の18世紀の女たちである。この作品における不在の中心とでも言えるようなものは家事であり、女たちは陪審員としてのつとめを果たす最中も常に家事のことを気にしており、ほったらかしにしたバターや収穫が必要なネギや洗濯物のことが心配で早く帰りたがっている…一方で、家事をせずに1日、家から離れていられることに非日常的な興奮も感じている。家事が実際に出てくるのは冒頭のわずかな部分だけなのだが、本作では賃金も出ない家事がいかに女性に負担をかけており、男性はその成果を当たり前のように享受しているということがほのめかされ続ける。

 そしてこの男性が女性による家事の成果を享受しているということが、社会全体の不平等の縮図みたいに提示されている。男たちは女性が家事をし、セックスの相手をし、子どもを生むことから利益を得ているが、一方で全く女性を対等な人間として扱わない。本作に登場する被告人サリーはとても好ましいとは言えない女性なのだが、そういう問題児であっても男性中心的な社会の犠牲者であるということを通して社会の不公正を描いている。本作の女性達は男性中心的な制度のせいでひどい目にあいつつ、たまにはそうした制度にへつらったふりをして利用することで生きのびようとしている。最後に男性の医者ウィリス(田村健太郎)が出てくるところは、医学の発展が多くの妊産婦を救った一方で助産婦という専門家女性が権威のない立場に追いやられていく過程を示唆している。

 全体的になかなか見ていてつらいところもある厳しい作品なのだが、女優陣の演技がしっかりしていて飽きずに見られる。陪審員と被告で13人も女性が出てくるが、全員非常にちゃんとしたキャラクターの描き分けがある。途中で暖炉の灰が飛び散るところは、こういう密室的な作品にしてはけっこうなスペクタクルだ。なお、このUK初演はマキシン・ピーク主演で、ナショナル・シアター・ライヴで上映予定だったらしいのだが、新型コロナで中止になってしまったそうな…とても残念だ。