ファム・ファタルも歌姫も貫かせてもらえないレディ・ガガ~『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(ネタバレあり)

 『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を見てきた。言わずと知れた『ジョーカー』の続編である。

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 ジョーカーことアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は殺人を犯した後、アーカム州立病院に収監されていた。模範囚で、弁護士のスチュワート(キャサリン・キーナー)はアーサーのメンタルヘルスの問題(多重人格)を強調する弁護プランを立てている。アーサーは所内で音楽セラピークラスに参加しているリー(レディ・ガガ)に出会い、恋に落ちるが…

 アーサーがメンタルヘルスの問題を抱えた犯罪者で全然カリスマ的なジョーカーではなく、アーサーがこれまで犯した殺人などのせいで何も悪いことをしていない隣人や同僚が激しく傷ついていた…ということを描く深刻な作品である。別につまらない映画では全然ないと思うし、野心的な大人の作品だ。しかしながら全体的にいろいろ非常に無理なことをしようとしているせいで物足りなくなっているように思う。

 とりあえず、この映画はファム・ファタルに騙される男が主人公のフィルムノワールと、マニック・ピクシー・ドリーム・ガールみたいな女性と冴えない男が恋に落ちて別れるまでを描くミュージカルと、メンタルヘルスの問題を抱えた前科者が自分に向き合う裁判劇を全部一緒にしたような展開で、この3つの食い合わせが圧倒的に悪い。非常に欲張りで野心的な作品なのだが、脚本が全くそれに追いついていないという印象を受ける。フェニックスとレディ・ガガの演技はいいし、脇を固める役者陣も悪くないし、たまに非常に面白いシーンもあるのだが、脚本がとっちらかっているせいであまり生かされていないと思う。

 序盤から中盤くらいまでのリーことハーレイ・クインとアーサーの関係は『深夜の告白』なんかのフィルムノワールを思わせる展開である。しおらしい雰囲気で出てきた美女が実はとんでもなくヤバい女で、アーサーを昔の悪い道に引きずり戻そうとする…みたいな感じなのだが、せっかくレディ・ガガを起用しているのにあまり見せ場がなく、最初はファム・ファタル然としていたリーが、だんだんただの思い込みの激しいファンガールみたいになっていく。ファム・ファタルに破滅させられる男の話をイマドキやっても面白くないから換骨奪胎しようというのはわかるのだが、別にとくに面白い換骨奪胎をやっているわけではない…と思う。

 さらにミュージカル場面は全然面白くない…というか、むしろあんまり面白くないのがポイントであるのはわかるのだが、コンセプトのために面白くないことをずっとやってもねえ…という気はする。この映画のミュージカルはほぼアーサーの頭で展開するもので、その点では『シカゴ』とかに近く、現実に対応できず、好きな音楽を通してファンタジーに逃げたくなるアーサーの気持ちを示している。そういうわけであんまり脈絡はなく、盛り上がる場面にはならないし、せっかく稀代の歌姫であるレディ・ガガを起用しているのに活躍の余地がないと思う。この映画のレディ・ガガファム・ファタルとしても歌姫としても中途半端で、これは明らかに脚本の問題だと思われる。

 ただ、ひとつ思ったのは、この映画はむしろスチュワートがリーの正体をアーサーにぶちまけるあたりから、最後にアーサーがテレビを見る直前くらいまでの展開が全部実際には起こっておらず、アーサーの頭の中でしか起こっていないと解釈したほうが面白いんじゃないかな…ということだ。最後がかなり唐突で、急に『ダークナイト』へのちょっとした目配せみたいなのがあったりするのだが、ここのつながり方が妙に不自然である。最後の場面のアーサーは最初の場面のアーサーと同じくげっそり痩せていて直前のシーンまでのアーサーと違いすぎるし、周りの人たちがまるで何もなかったかのように振る舞っているのもちょっと変だ。スチュワートがリーの正体をアーサーに明かすあたりで挿入されるファンタジーミュージカルシーンと、最後にアーサーが刺された時に展開するファンタジーミュージカルシーンは完全につながっているので、私の解釈ではこの2つのミュージカルシーンの間に現実で起こったこととして描かれている展開は全部アーサーの想像で、実際には起こっていない。つまりジョーカーが裁判で英雄視される途中の展開すらアーサーの想像…と解釈したほうが面白いような気がするのだが、ただこの解釈はちょっと強引すぎる気もするので、まあ私だけが想像して楽しむ系の解釈だな…と思う。