キングストン半日観光(2)〜女王陛下のシェイクスピア

 さて、夜はジュディ・デンチが出演し、ピーター・ホールが演出するというローズ座の『夏の夜の夢』。


 これがキングストンのローズ座。

 なお、これはロンドン中心部のサウスバンクにある、17世紀の以降が残っているローズ座とは全くの別物。キングストンのローズ座も明らかにシェイクスピアの時代の劇場に倣った作りで、円形劇場でなんと真ん中には平戸間がある。今回は平戸間の席をとったのだが、なんと平戸間の席は自分でクッションを持って行かねばならない。うちにはクッションがないので、仕方なくまくらを持って行った。

 しかしながらこの平戸間の席は迫力がとにかくすごい!!舞台にかぶりつきなので、役者のツバや汗がとぶとこまで見える。一度なんか小道具が私の目の前に落ちてきたりした(隣の人が拾って舞台に投げ返してやっていた)。立ち位置によっては、たまに役者が自分だけに話しかけているような錯覚に陥りかける。


 …で、一言で言うと、今まで見た『夏夢』の中で一番面白いプロダクションだった。まず全体の構成がかなり工夫してある。なんてったってジュディ・デンチピーター・ホールと組むというのがこの上演の売りなのだが、これが単なる客寄せデンチではなく、全体に効いてくるような芝居の作りになっている。


 このプロダクションの特徴は、全体が「エリザベス一世のための上演」というコンセプトにつらぬかれているところである。ジュディ・デンチの当たり役といえば『恋に落ちたシェイクスピア』に出てくる芝居が大好きな「グロリアーナ」ことエリザベス一世で、たぶん芝居に行かないイングランド人はこの役でジュディ・デンチを記憶しているはずだと思う。なお、デンチには映画でもうふたつ当たり役があるのだが、それは『007』のMと『クイーン・ビクトリア 至上の恋』のヴィクトリア女王で、どっちもはっきり言って「大英帝国のずば抜けて有能な母」である。それで、今回のプロダクションはあえてこのデンチの女王カリスマを活用する方向でやっている。つまりデンチは「タイテーニア」という役柄をまとって舞台上に登場しているわけではなく、いわくつきの「女優ジュディ・デンチ」としての存在が先にあるってことである。こういう「役者が既に持っているカリスマを活用する」役っていうのは独特の気持ち悪さがあって面白いのだが(戯曲なら『キーン』、映画なら『イヴの総て』とかがそうだよね)、今回はそれが非常にうまくいっている。


 まず最初に黙劇みたいなのがあって、女王陛下の格好をしたデンチがひざまづく役者たちの間を入ってくる。それで女王陛下が侍女の手から芝居のスクリプトのようなものをもぎ取った後、寵臣であるらしい若い男の臣下のキスを手で受けてから退場するという一連の場面がある。これにより、どうやらこの『夏夢』は女王陛下の意を受けて上演されるらしいこと、そしてデンチ演じる妖精の女王タイテーニアはまるっきりエリザベス一世の演劇的分身であるらしいことが示される。


 そんなわけで、この公演のタイテーニアとオベロンの関係は大変「女王陛下のご意志」に添うものとなっている。この公演のオベロン(タイテーニアよりだいぶ若い)はどうやら心からタイテーニアを愛しているようで、オベロンがタイテーニアの小姓を欲しがるのはおそらく子供にかかりきりのタイテーニアが自分のことをかまってくれないのがつまらないという嫉妬のせいもあるらしい。オベロンがタイテーニアに恋の薬を仕掛けていたずらする様子を描くのにあたっても、「…なんか、かわいそうになってきたよ」とか、タイテーニアが目覚めたところでの「お前のことが大好きなんだ」というような優しい台詞が非常に強調されている(この台詞はキスをつけて言っていた)。途中でオベロンの気まぐれにさんざん振り回されてバカなことをしたタイテーニアが結局最後はオベロンの愛と敬意を受けるということで、お芝居全体の後味はエリザベス一世の権力が強化されるようなものになる。つまるところ、何をやっても絶対に国民から愛される女王陛下ということである。


 タイテーニア役のジュディ・デンチはもう70にもなるばあさんであるはずなのだが、順当に年はとっているもののすごく元気で、体も声もコントロールが完璧。とくに最初の異常気象についての長台詞は、もう意味とか考えなくてもなんか響きだけでうっとりしてしまいそうなくらいリズムがしっかりしていて、びっくりしてしまった(…うっとりしているうちに話がすすんで、「あれ、ちゃんと聞き取れなかった」となるのが非ネイティヴの悲しいところ)。自分の子供くらいの年のボトムに恋するところもなんだかちょっと可愛くて、「若いツバメに溺れるイヤなばばあ」風には絶対にならない。




 それからボトム役のオリヴァー・クリスが大変いい。夏夢の出来というのは大部分ボトムにかかっているところがあると思うのだが、文句の付け所がないできだった。基本、クリスのボトムは「下町のいい男」ぶってはいるものの、大変「誠意のあるヤツ」として描かれており、そこが余計笑いを誘う。このボトムは単に自分が目立ちたいとかいうだけじゃなく(いやもちろん目立ちたいのだが)、職人たちによる芝居を良くしようという熱意に溢れているみたいだし、普段は機知に富んだいいヤツでもある。しかしながら劇をやるとなると普段の気の利いた態度がすっかりなくなってしまい、ヘタながらもそれなりにやる気と工夫のあふれた様子で台詞を言うのだが、それが全部裏目に出るのである。最後、ピラマス役のボトムがものすごい時間をかけて死ぬところはあまりのおかしさに腹筋が外れて笑い死にしそうになった(劇場内ももちろん割れるような爆笑)。死ぬ直前になんと芝居の手話通訳の人にまで絡んだりとか(!)、今まで見た中でもトップクラスに大げさなボトムだったのだが、全然鼻につくところがなくて、ただただおかしかった…



 あと、この公演で特筆すべきところというと、ハーミアが結構イヤなヤツだということである。まあ別に「お高くて感じ悪い」程度で、喜劇のヒロインとして同情できないくらいやなヤツだというわけではないのだが、あまりにも思い詰めているハーミアに比べると可愛いからってずいぶん余裕こいてるように見える。レイチェル・スターリング演じるハーミアはすごく上手いと思ったのだが、これまたなかなか一筋縄ではいかないタイプで、最初に出てくる時の大げさな嘆きっぷりといい、突然ライサンダーとディミートリアスに求婚された時にうろたえっぷりといい、むしろあまりにも報われない恋にいれあげすぎて自己憐憫自体が趣味と化している女の子みたいに見える。最近のヘレナはストーカーっぽく作るのが流行っているように思うのだが、ライサンダーとディミートリアス二人に言い寄られてきた時、驚愕して「そんなわけない!私がそんなにキレイなはずない!」といわんばかりの様子で怒り出すひねくれっぷりは結構新鮮だ。



 あとはまあ、パック(リース・リッチー)は当たり前のように良かった(夏夢でパックにいい役者をキャスティングしないわけがないので)。それから、フィロストレイトーがちっちゃな役なのに意外とうまく笑わせてくれたのがびっくり。



 ひとつ残念だなと思ったのは、最初はデンチがエリザベスとして登場する黙劇があったのに、最後はそういう「枠」を閉じる演出がはっきりと行われてないことである。パックの口上で終わるからそういう枠を閉じる必要がないというのはまあひとつの言い分だし、『じゃじゃ馬ならし』に倣って最後はオープンにしたというのもまあありだとは思うのだが、この終わり方ではまるでパックが芝居の支配者であるように見える。全体としてエリザベス女王の権威を称える一方、コメディのパートは徹底的に可笑しく作って「メリー・イングランド」風の雰囲気を出すようにしているんだから、「エリザベス朝らしさ」を追求するためには枠をもっと明確に閉じる必要があったのではないかと思う。「これはエリザベス女王の芝居なんです!パックが支配しているように見えますが、実はエリザベスが治天の君なんです!」っていう演出をもっと強くすべきだったんではないかな…



 あと、全然関係ないのだが、字幕付きの公演をとったつもりが、なんかボックスオフィスの違いで手話通訳の公演だった。しかしながら台詞が多すぎてとにかく通訳の人が大変そうだったし、誰が話しているのか明確にするのが字幕よりも明らかに難しそうだ。こういう台詞が多くて、何人もの人が一度にしゃべったりするようなことのある芝居では、字幕も一緒に採用したほうがいいんじゃないかな…