バービカン、蜷川『シンベリン』〜ローカライズ版逆輸入、キティちゃんアプリつき!

 バービカンで蜷川シンベリンを見てきた。シェイクスピアフェスティヴァルの一環なのだが、グローブでやっているグローブ・トゥ・グローブとは別ライン。


 とりあえず行く前にこちらの新聞記事を読んでいて、原作に出てくる杉を陸前高田の奇跡の一本松(被災松)に変えたということでセットの美術について若干不安に思っていたのだが、なんか松のセットがそういうレベルじゃなくショボかったと思う…私は脇のかなり見づらい席で上のほうが見えないからというのもあるのだろうが、まっすぐすぎる上葉っぱの感じがやたら軽くて松に見えない。一瞬ヤシかと思った。
 ↓カーテンコールでとった写真。

 これは日経の劇評写真だけど、これ日本の文化的コンヴェンションからいって松に見えます?
 まあたぶんそもそも奇跡の一本松(これ、枯死してしまったらしいのだが…)のビジュアルをそのまんま持ってきたのが良くないとも言える。原作の杉はブリテンの象徴で、これをローカライズして松にするとすれば日本の演劇的コンヴェンションでは能舞台に出てくるみたいなぐんにゃり曲がった老木になるはずで、原作のセリフにあわせるとすると、本枝の他に強い枝が一本出ていて(シンベリンとその娘イノジェンを示す)、このほかあと二箇所枝が切り落とされているのに再び脇から新しい枝が出ている(行方不明になったあとで戻ってきた2人の息子を示す)ような木のセットがふさわしいと思うのである。しかしながら神の意志により幸福な結末がもたらされたのにうしろに松ともヤシともつかないまっすぐの木が立っているというのが何かすごい違和感あるので、奇跡の一本松を流用するのは演出としていいのかとかそういうのを議論する以前にビジュアルがしょぼすぎるという問題がある気がした。
 

 この他、ローマのセットについては前の『タイタス・アンドロニカス』で使ったロムルスとレムスに授乳する雌狼の像をマイナーチェンジで流用してややマンネリ気味。ただ、ポスチュマスがローマに到着して妻自慢をする場面の雨夜の品定めをモチーフにした美術はとても良かった。源氏物語を描いた背景と、ローマの公達どもの荒っぽくしどけないファッションがよく調和している。



 演技のほうだが、役者はおおむねよかったと思う。ただ我々(あえて我々と言おう)がこよなく愛する阿部ちゃんが完全にイケメン力を封印していたのが残念だった。ポスチュマスって基本的に「小さい男」であまり格好良くないのでそれにあわせて芝居も小さく色気のないきまじめな感じにしたのではと思うのだが(最後のカーテンコールでは阿部・大竹が本人に戻っていてあまりのイケメン&熟女ぶりに驚いたのでたぶん意識的に色気を封印している)、デカくて誰が見ても男ぶりがよく、喜劇味がある阿部寛にはあまりあっていないのではないかと思うのである。この間のキリアン・マーフィの舞台についてもそう思ったのだが、真のイケメン俳優はイケメン力を完全に封印できるんだけど、うちは別にイケメンがイケメンを封印しているところは見たくない。イケメンがイケメンであってはならないなどということがあろうか。私の野望は私が翻訳した『アントニークレオパトラ』を阿部寛鈴木京香主演で舞台にかけることで(鈴木クレオパトラには船場言葉か京言葉をしゃべっていただく予定)、これは実現されないと思うのだが(がっかり)、実現されないんなら小田島先生か河合先生か松岡先生あたりの翻訳で誰か阿部寛を使ってアントニークレオパトラやってくれ…

 大竹しのぶはすごかった。さすが役者はバケモノだけあって、もう50すぎてるはずなのに舞台に出てくると20くらいの何も知らないお嬢さんに見える。男装する時の声の変え方とかもほぼ完璧だと思うし…ただ、阿部と大竹が並ぶとどっちかというとシンベリンとイノジェンというよりはマクベス夫妻といったほうが似合いそう。
 
 びっくりしたのは窪塚洋介がすごい上手だったこと。ヤーキモーの役なのだが、ふだんはただのすかした色男なのにイノジェンに恋いこがれ始めるあたりからはすごい狂気じみていて、あそこまでスケールが大きくなくてもこういう外面はいいのに歪んだ性欲とか名誉欲を隠し持っている男の人っているよなーと思えてなかなかにリアルだった。役作りの方針としては蜷川タイタスの小栗旬に似ていると思うのだが、小栗エアロンのように理性的に復讐をたくらむ悪党ではなく、完全におかしい人みたいである。


 演出全体はいつもの蜷川で、藤原ハムレットの時と似たスローモーションを戦いの場面で使っていた。最後もまたスローモーションにして余韻を出そうとしていたのだが、私はあれはしめっぽくなるからいらないと思ったな…グローブ座で最後踊りで終わるプロダクションとかばっかり見ているからかもしれないが、最近は最後話の筋とはあまり関係なくパーッと歌や踊りで終わって「ここから現実です!」と日常生活に引き戻してくれる演出のほうが好きになっている。それからジュピターがデウスエクスマキナとして現れるところはちょっと派手すぎではと思ったのだが、あれは好みかなぁ…


 と、いうことで、セットがショボいとかスローモーションくどいとか色々けなしたが、とはいえ基本的に蜷川の演出というのは超ちゃんとしていると思うので、ほとんど地雷がなく安心して見られる。去年エディンバラで見たどうしようもない京劇とか韓国民族芸能版のシェイクスピア、あるいは???だった夢幻能版オセローなんかに比べるとやっぱり蜷川は段違いにローカライズの質がいいよな…私はインターカルチュラル演劇とかいう言葉はよくわからないというか実は何も言ってないんじゃないかという疑いを持っているので(同じ言語で違う時代の芝居を上演するのは違う文化の演劇をやってるわけだから今グローブ座でやってるシェイクスピアは全部広義のインターカルチュラルだべねぇ)、こういう情報化の時代にはiPadとかをローカライズする(現地語で使えるようにちょっと書き換える)みたいなモデルで芝居を考えたほうがいいんじゃないかと思っているのだが、蜷川って「話をきちんとわかるようにやる」(もともとある優れた機能をきちんと保持する)+「台詞をきちんと聞かせる」(まともな日本語に翻訳する)+「セットや衣装、細かいアリュージョンなどで日本文化の中で育った客になんとなく親しみやすい雰囲気を醸し出す」(インターフェイスなどのマイナーチェンジで現地の人にわかりやすいようにする)という三つがだいたいできてると思うのである。この三つめの条件がクセモノで、ものによってはセルフオリエンタリズムみたいになったりするところもあって危険だと思うのだが、とはいえたぶんこの三つめのマイナーチェンジがうまいから日本だけじゃなく欧米にもローカライズ版逆輸入!キティちゃんアプリつき!みたいな感じでウケるのかもと思う。