抽象的な美に近づくのに具体物を参照せねばならないという罠〜三菱一号館美術館「ザ・ビューティフル 英国の唯美主義1860-1900」

 三菱一号館美術館で「ザ・ビューティフル 英国の唯美主義1860-1900」を見てきた。森美術館でやっているラファエル前派展とシリーズのような関係だが、こちらはバックアップしてるのが絵画のテートじゃなく工芸・デザインに強いヴィクトリア&アルバートミュージアムなので、アーツ&クラフツの工芸品がたくさん来ているという違いがある。とくにケイト・グリーナウェイやウォルター・クレインなんかも含めた稀覯本とかビアズリーの絵なんかが来ているあたり、ラファエル前派とはちょっと違った雰囲気もあったりして個性的だ。

 「ラファエル前派展」と「ザ・ビューティフル」両方を見て思ったことは、抽象的・理想的な美に近づこうとするのに結局は具体的な人とかモノを参照しないといけないということで、この頃の芸術家は実に不思議なアプローチをしていたということである。基本的にラファエル前派というのは女を描いても植物を描いてもかなり抽象化していて、現実の女とか植物の特徴をとらえることには興味がないようだ。しかしながら美というのは現実に我々が生きている社会の中で人間の知覚を通してつくられたもの、つまりは経験の積み重ねの産物であるので(経験の積み重ねから独立した絶対的な美の基準とかないわけだよね)、そういう現実で見るもの聞くもの触るものを参照しないと抽象的・理想的な美が規定できないというジレンマがある。だから美女やらきれいな花を描いてみたりするし、またまたラファエル前派の画家たちはモデルたちを美の具現として崇めてみたりするわけだが、なんていうか抽象的・理想的な美を称えたいなら生身の美人を美の具現として崇めたりするのはあんまりコンセプト的によろしくないような気もするんだけど、この頃の芸術家はそういうことを考えずに開き直って中世的な態度で(中世だと寓意で擬人化された美徳とかふつうに出てくるもんね)現実のモデルや植物をまるでコンセプトのように扱っていた。このあたり、ジェンダーセクシュアリティと絡めると面白いと思うのだがイマイチ考えがまとまらない。ちょっととっちらかってるのでもう少し追記すると、別に唯美主義ってそこまで過激に理想化・抽象化された美を求めなくてもいいものではと思っていたのだが、「ザ・ビューティフル」の展示構成やパネルの解説を見ていると、道徳からも宗教からも離れて、はっきりした主題もどんどんなくなり、セッティングも技法もどんどんシュールになり理想化されるのに、なぜか描かれているモデルさんだけは美の具現として現実世界に君臨している、みたいな印象が強くてそこに非常に不思議さを感じるということである。