神が死んだことはわかってる、でも冒涜はする~無神論者のためのポストモダンホラー『ミッドサマー』(ネタバレ)

 アリ・アスターの新作『ミッドサマー』を見てきた。

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 ヒロインであるダニー(フローレンス・ピュー)はもともと精神的な不安を抱えていたが、妹が両親を無理矢理道連れにして自殺して以来、不眠やパニックアタックに悩まされるようになっていた。そんな中、あまり関係良好とはいえない恋人で文化人類学の博士課程院生であるクリスチャン(ジャック・レイナー)が、友人であるペレ(ヴィルヘルム・ブロングレン)の故郷であるスウェーデンのホルガ村に伝統的な夏至祭を見に行くことを知る。ダニーもこの夏至祭体験に参加することにするが、ホルガ村のお祭りにはいろいろ謎があり…

 

 一応お話としては、誠実とはいえない恋人から離れられず、悩んでいる若い女性が、ふさわしくない相手とのお付き合いを捨ててある種の「解放」を得る、というものである。この「解放」過程が宗教に入ること、というのは『アナと雪の女王2』だし、ボーイフレンドとの健康的とはいえない関係を断ち切って…というのは『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』と似ている。ホラーなのでだいぶ質感が違うが、最近注目されているテーマを扱った作品であることは間違いない。

 

 とりあえずこの作品ですごく特徴的だと思ったのは、宗教の捉え方だ。この作品、宗教ホラーであるにもかかわらず、神はひとりもいないのである。監督の前作『ヘレディタリー』もわりと宗教ホラーとしては変わった作りだった。悪魔ものなのだが、ふつうのホラー映画なら悪魔と戦おうという時にはとりあえず近所の教会とかに相談しよう…とか思いそうなものの、『へレディタリー』に出てくる人たちは基本的に全くキリスト教その他の体制宗教に頼らないし、そういう発想がなさそうなのである。一方で『へレディタリー』では、少なくとも悪魔の力で人々が変なことをしている気配はあったので、キリスト教モデルの神はいないけど悪魔はいる世界観だった。

 『ミッドサマー』においては、とりあえずキリスト教を真面目に信じている人間はひとりもいないようだし、誰もキリスト教モデルの神に頼らないのでそれはまあ前作と同じだ。しかしながら、いわゆるペイガニズムを信仰しているホルガ村においても、神に類する超自然の力で何かが起こることは全くない。ホルガ村で発生する幻覚とか、理性では考えられないような行動というのはほとんど村人が作っている天然もののドラッグの力で発生するものであり、すべての出来事を人間が起こしていて、実は全部科学と理性によって説明できる。私は無神論者なのだが、全然超常現象が起こらず、ほぼ科学で説明がつくという点では、この作品は無神論者の世界観にとてもフィットした宗教ホラーだ(無神論者にやさしい宗教フォークホラーって、最高ではないか)。

 さらに、一応最初に巨人の伝説があるとか祖霊信仰やってるみたいな説明はあるのだが、どの神様に何をするとどういう御利益があるとか、どの神とどの神がどういう関係かみたいな、具体的な神々の体系みたいなものもあまりよくわからないうちに話がすすむ。この映画は儀礼のディテールについてはいろいろ丁寧に詰めているのだが、信仰そのものに対しては全然、関心をもっていない。『ヘレディタリー』は神はいないが悪魔はいる世界観だったが、『ミッドサマー』は超自然の存在が一切、存在しないところで展開する宗教ホラーである。

 ところが、『へレディタリー』でも『ミッドサマー』でも、存在していないはずのキリスト教モデルの神に対する冒涜は一生懸命行われる。『へレディタリー』で男性が悪魔の依り代になるあたりはイエスの処刑などを真似た冒涜の意味があるのだろうと思われるし、『ミッドサマー』で祝祭の女王となったダニーの恋人として屠られ、生け贄にされるのは「クリスチャン」(「キリスト教徒」という意味)である。神はいないはずだが、神をディスるのだけはやるのである。キリスト教由来の神は死んだ後も冒涜され続けなければならない。「神は死んだ」というニーチェの言葉はなかなかポストモダン的な宗教観だが、存在しない神であってもとりあえず汚そうとする、というこの作品はとてもポストモダン的なホラーである。

 『ミッドサマー』はフォークホラーの古典である『ウィッカーマン』の影響下にあると思われるのだが、この映画が『ウィッカーマン』と違うところは、サマーアイルに比べるとホルガ村の宗教はなんかものすごくアメリカ的というか、いかにもピューリタンが考えそうな土着信仰だということだ。サマーアイルの性道徳というのはわりとゆるやかな感じで、村の人たちは許可なく誰とでもセックスしていいみたいだったのだが、ホルガ村は一見、キリスト教的性道徳から離れているように見えて、性的統制がかなりある。マヤがクリスチャンとセックスする前に長老の承認が行われているし、「預言者」を生むための計画的な近親相姦が行われているそうで、どうも許可なく好きにセックスしたり断ったりしていい環境ではなさそうなのである。実は19世紀アメリカにオナイダ・コミュニティというキリスト教系の宗教団体があり、ここは複合婚を実施していて男女ともに複数の相手とセックスしていいのだが、一方でかなりの性的統制があり、たぶんホルガ村はサマーアイルよりもこのオナイダ・コミュニティに近いと思う。

 

 なお、ここまで書いてきたことと全く関係ないが、この映画の素晴らしい教訓は「研究倫理を守らないと死ぬ」ということである。あと、クリスチャンは明らかに研究に向いていない。絶対にまた博論のテーマを変えると思う。