ヤングヴィック『三人姉妹』〜アクション抜きで三時間タランティーノやったらどうなると思う?

 ヤングヴィックでチェーホフの『三人姉妹』(ベネディクト・アンドルーズ演出)を見てきた。『三人姉妹』は私が考える史上最も残虐な芝居なのだが(ほとんど何も起こらないだけなのにね)、結構斬新な演出で残虐さがいっそうパワーアップして全編「うわあああああ」みたいな感じだった…

 舞台は三方を客席に囲まれた平戸間に平らなテーブルを敷き詰めたもので、主なアクションはこの上で展開されるのだが、後半の火事の場面あたりからこのテーブルのセットが解体されて最後の場面には完全に客席と同じ平面の土間になる。客席のない奥まったところには土の山みたいなのが作ってある。 

 演出はけっこういろいろな新機軸が取り入れられており、台詞の翻訳はかなり汚い言葉を使っているし(Fuckとかいっぱい出てくる)、第二幕はカーニヴァルの設定でみんながお面を持ち込んできたりオルガとクルイギンが学校行事で作ったらしいパーティ用着ぐるみを着て帰って来たり、普通の演出だとよく見かけるようなロシアの上流階級が上品に穏やかに衰退していく感じはなくなっている。剥き出しの焦燥感みたいなものがわりとエネルギッシュに表現されており、このへんはミドルクラスが不景気で没落していっている現代の世相とイギリスの階級制度なんかに合わせて補正してるのかなと思った。

 演出の工夫としては、ロックをかなり自然に使っているのが面白かった。普通なら19世紀末〜20世紀はじめ頃のロシアの上流階級が歌うようなクラシックとか歌謡曲をもってきそうなところにロックとか最近のポップを持ってきて、長い会話の合間合間に登場人物がみんなで歌ったり踊ったりするのだが、それがサロン的な雰囲気にえらいマッチしていてふつうに社交の一環みたいに見えるところがなかなか良い。一番すごかったのは第二幕の途中でナターシャにつぶされるパーティの場面で、ここではみんながピアノの伴奏でニルヴァーナの'Smells Like Teen Spirit'を歌うのである!いまいち大人になりきれていない登場人物がこのタイトルを歌うということ自体がもう「うわああああ」なのだが、まあなんてったってこの歌は暗いし'Hello, hello, hello, how low?'だからねぇ…しかもそれを一番若いナターシャがつぶしに来るあたりも皮肉すぎる。

 で、こういう音楽の使い方は何かに似ている…と思ったのだが、たぶんタランティーノの映画にすごく似ている。チェーホフタランティーノは一見全然違うようだが、実はわかるようでわからないなんとなく滑稽だったりなんとなく哀しかったりする会話がえんえんと続く…という共通の特徴があるのではないかという気がするのだが、罵り言葉をたくさん導入し、要所要所に気の利いた音楽を入れたせいで余計タランティーノっぽくなった。しかしもちろんチェーホフの戯曲にはアクションも暴力も解決もない。会話を通して人々がゆっくりと衰退・没落していくだけである。アクションも解決もない三時間のタランティーノというのははっきり言って地獄であるが、観劇クラスタというのは1900年くらいからこのかたずーっとこの地獄を見に舞台に通っているわけである。

 役者の演技もおおむね良かったと思うのだが、とにかく私の心にグッサリ刺さったのはアンドレイである。アンドレイは学者を志して挫折し、役所に就職したのはいいが学問好きの姉妹たちからはその決断を批判され、結婚した妻ナターシャは役所の上役と不倫しまくり、という人物なのであるが、この上演のアンドレイはデブで口の悪いナードで、しょっぱなから(来客中にもかかわらず)出っ腹丸出しの姿で現れるという「廃人化しつつある大学院生」そのまんま。しかしながらそんなアンドレイが学問をあきらめ就職して結婚して父になり、最後は乳母車を押して出てくるわけだが、そういう一見大人ふうなアンドレイよりも最初の廃人気味なアンドレイのほうがまだ恋をしたりヴァイオリンにはまったり生き生きしたところがあった、というのはまあもうチェーホフの人間を書く視点は残虐すぎる。たぶんこれが発表された当時のロシアでは学問への尊敬が非常にあって公務員はそうでもなかったのだろうから、大学院生が就職できない現代とは文脈が逆だろうが、今回の演出では「学問やめて結婚して就職して一見『まともな大人』になったとしても、それは本当に『まともな大人』なのか?結局は日常生活に流されてボロボロになるだけなのではないか?」という身も蓋もない人生航路を提示していて異常に残虐である。

 まああと『三人姉妹』は見る観客の内面の嫌な部分を顕在化させる珠玉の芝居だと思うのだが、ギャルママのナターシャがほんとに観客を嫌なヤツにして下さる。とにかくファッションセンスが悪いのだが、階級が低いことでインテリの姉妹たちにバカにされたり子育てに苦労しているあたりはまだ同情の余地あるかも…と思って見ていると、息子に熱があるからといって家族のパーティをやめさせたのにその直後に息子をほったらかして深夜に不倫相手とオシャレして出かけるとかいう狡猾ぶりで観客を呆れさせ、とどめは年取った家政婦に対する精神的虐待である。この作品の素晴らしいところとして家庭とか母性はよいものなのだ、という神話をちくちくと面白可笑しく諷刺しているところがあると思うのだが、なんというか演出のせいもあるかもしれないけど不思議とミソジニーは感じないんだよね。全体的にこの戯曲は描写に容赦がなさすぎてあらゆる階級とかジェンダーにまつわる社会的慣習が諷刺されていると思う。

 最後のマーシャとヴェルシーニンが別れるところからクルイギンがマーシャに水を持ってくるところまでのシークエンスはとても面白いと思った。この演出ではクルイギンはマーシャ(ブロンドですごい美人)の不倫にかなり早い段階から気付いているがあきらめに満ちた大人な態度(年食った小男の自分がこんな美女と結婚できただけでもう感謝するほかはないのだという圧倒的諦念)で気付かないフリをしており、マーシャも最後のところでもう全員にバレてるからというのでコップ投げ飛ばしたり思いっきり暴れたりするのだが、あまり動じないクルイギンとのコントラストがはっきりしていてとても良いと思った。しかしながら最後は三人姉妹が並んで台詞を言って終わりになるので、夫婦の絆よりも姉妹の絆のほうが強かったという印象を与える。

 まあこんな感じで非常に好みが分かれそうではあるのだが、私は非常に良かったと思う。まあ戯曲が優れているからなぁ…