戯曲に内在するジェンダーステレオタイプの強化~ナショナル・シアター『鋤と星』

ナショナル・シアターで『鋤と星』を見てきた。1926年に初演されたショーン・オケイシーの有名作で、1916年にアイルランドで起こったイースター蜂起を扱った作品である。ただ、この作品は蜂起を英雄的に描いた作品ではなく、突然街が戦場となって右往左往するダブリンの市井の人々を描いている。2016年はイースター蜂起100周年ということでいろいろイベントがあるが、この芝居も記念の年ということで上演されたものである。演出はジェレミー・ヘリンとハワード・デイヴィス。

 セットは1916年のアイルランドで、第一幕は家の中、第二幕はパブ、第三幕は街頭、第四幕はがらんとした家の中である。基本的には時代ものらしくオーソドックスな演出で、第二幕の酒が入った人たちの描写なんかはいかにもアイルランドの芝居という感じでうまい。全体としては、革命のヒロイズムの裏面、つまり暴力に押しつぶされていく人々の苦痛や、逆に欲の皮の突っ張った頑張りを見せる人々の強さ(第三幕では蜂起に乗じて火事場泥棒が行われる!)をうまく提示しているとは思った。

 ただ、これは好みの問題だと思うのだが、せっかく作り込んだセットなのに照明のあて方があんまり良くないと思った。とくに第四幕、複数人が舞台にいるのに部分的に暗いところができて、台詞を話しているのに表情が見えない人物が出てくるような照明プランになっている。私はこういう表情を殺す演出は劇的効果を殺ぐものだと思うので気に入らなかった。

 また、終盤にかけて原作にもひそんでいるジェンダーステレオタイプが演出のせいでかなり強化されてしまっていると思った。基本のプロットとして、蜂起に参加しようとするジャックを妻のノラが必死に止めようとするがうまくいかず、ジャックは死んでしまってノラは子どもを流産し、自らも狂気に陥ってしまうという展開がある。物語じたいは明らかにノラの苦境に同情を寄せていると思うのだが、全体的にノラが夫と子ども以外に全く生き甲斐の無い、ものすごくか弱い女性に見える。ノラはもともとそういう人物なのでしょうがないとは言えるだろうが、もうちょっと演技と演出でなんとかならなかったのかと思う。娼婦のロージーや、ケンカばかりしているのに実はお互い心配しているらしいベッシーとゴガン夫人なんかはもっと厚みのある登場人物として演出されていたと思うのだが、ノラは非常に一面的な人物だと思った。とくに最後、ノラを助けようとしたベッシーが撃たれた後、ベッシーが助けを呼ぶのに狂ったノラがうろたえて何もしない場面は女性同士の助け合いが全く働かないという展開になるので、ちょっと見ていてイライラしてしまった。もう少しノラを情熱的な深みのある人物として演出しないと、この芝居は容易にジェンダーステレオタイプに陥って、可哀想な女性を見ているだけの単純な話になってしまうのではないかと思う。